第37話 天正月
世の中に存在する夫婦の数だけ、二人だけのルールは存在する。
どこかの夫婦の真似をして上手く行くこともあれば、行かない事もある。
そして、真似をしたいと思える夫婦が、身近に見当たらないこともある。
そういう場合、どう対処すればいいのだろう。
今日も帰りは遅くなる、と言った朝長からの帰宅連絡が入ったのは22時過ぎのこと。
実家暮らしだった頃も、父親は週の半分以上帰りが遅かったし、飲み会や接待が多いことにも慣れている。
夕飯を作る手間が省けて良いのだが、急に帰宅した彼がお腹を空かせたまま過ごす事が無いようにいつも冷蔵庫には作り置きおかずを置いておく癖がついた。
これも良妻への地道な一歩である。
いつものように先に入浴を済ませて、リビングで待とうか悩んで、今夜はベッドルームに向かった。
けれど、眠ってしまうことはせず、上掛けに潜ってスマホに送られてきたメッセージをもう一度確かめる。
そこに表示されているのは、愛果と朝長の夫婦生活について相談できる唯一の人物、涼川恵の名前だ。
朝長への気持ちを再確認して晴れて前向きに結婚へのリスタートを切った愛果は、これまでの不躾な態度を恵に謝罪して、改めて仲良くして欲しいと願い出た。
愛果の発言に一瞬ポカーンとなった恵は、信じられないという表情になった後、愛果の両手を力強く握りしめてこちらこそよろしくお願いします!と全力で答えてくれた。
高校時代よりハキハキと喋るようになっていた恵は、あの頃の思い出をぶつけるように、愛果にずっと憧れていたと告白してきた。
そのうえ、実は朝長と愛果をモデルにした青春ラブストーリーで作家デビューを果たしたと言われた時は驚いたけれど、それ以上に驚いたことは、昔の愛果は可愛くて、今の愛果は美人だと臆面なく恵が言ってくれたことだ。
朝長が愛果を誉めそやすのは、思い出補正プラス照れ臭いけれど惚れた弱みというやつで、けれど、恵の意見は完全に客観的に愛果を見ての感想で、だから素直に受け取ることが出来た。
作家特有の独特な言い回しで、扇情的な雰囲気が愛果の魅力を引き立てていて、あの頃にはなかった人妻らしい色気があると、豪語され時にはさすがに閉口したけれど。
色気があると言われても、今だ愛果は処女のままで、朝長とは一緒に寝てもキス止まり。
結婚してから募る一方の恋心は、身も心も夫婦になりたいと訴えてくるけれど、彼を前にするとどうしても怖気づいて、手を伸ばせない。
言葉では無理なら、せめて態度で示せたらと上目遣いに見つめてみるも、照れたように笑った朝長から甘ったるいキスが返ってくるだけで終わってしまう。
このままいつまでも致せない夫婦でいたくはない。
世の中の奥さんはどうやって旦那様をその気にさせているのだろうと気になって、参考意見を聞きたくなったが、残念ながら愛果の身近に同世代の既婚女性は皆無。
途方に暮れた時、最近一緒にお料理教室に通い始めた恵の事を思い出した。
今は鳴かず飛ばずのエセ作家だよ、と肩をすくめる彼女だが、仮にも物書きなのだから、ネタとして色んな知識を仕入れている可能性がある。
恥を忍んで、自分たち夫婦が未だ未遂であること、愛果自身が未経験でどうして良いか分からないことを素直に打ち明けて助言を求めると、恵は食い気味に頷いて、必要な情報を纏めてメッセージで送るね!と請け負ってくれた。
そして、届いたメッセージが、寝支度を整えて彼の好きそうな下着を身に着けてベッドで待つこと、というシンプルなものだった。
言葉にする勇気がないなら、パジャマのボタン外すだけで朝長くんにはクリティカルヒットだと思う、という謎のアドバイスも付け加えてあって、今日はシャツワンピースタイプのルームウェアを選んだ。
身体が冷えていると余計緊張してしまうから、しっかりお布団にくるまっててね、という何とも丁寧な恵みの助言にありがとう、とスタンプを送って、これで無事朝長に抱かれたら、脱処女報告しないといけないのかと思うと、ちょっといやかなり照れ臭い。
恵は未だ、朝長と愛果のカップルに多大な夢を抱いているようなので、愛果の相談を受けた彼女の頭の中で、彼女が二人をモデルにして作ったキャラクターが、本人たちそっちのけでイチャイチャしていたらどうしよう、と考えたら、訳の分からない恥ずかしさが押し寄せてくる。
一人でスマホを握りしめて、モダモダしていたら、玄関のドアの開く音がした。
リビングの明かりが消えている事に気づいた朝長が、静かにベッドルームに入ってくる。
ベッドサイドの明かりを見た彼が、愛果の名前を呼んだ。
「愛果、起きてる?」
「・・・・・・うん・・・起きてるよ・・・・・・おかえり」
「ただいま。今日も遅くなってごめんな。来週は連休取れそうだから」
内覧会イベントの前はとくに残業が増えると事前に聞かされていたので覚悟していた。
連日日付が変わってから帰宅する朝長の体調が心配になったけれど、彼の方はハードスケジュールに慣れているようで、遅くまで帰宅を待っていた愛果の身体のことを心配されて、ますます彼の事が好きになった。
一緒に過ごす時間が増えれば増えるだけ、彼を思う気持ちは強くなる。
それはすれ違いの生活が続いても変わらない。
むしろ愛しさは募るものなのだと思い知らされる。
「ううん・・・いいの。遅くまでご苦労様。あの・・・・・・・・朝長、あ・・・蘇芳」
慌てて彼の名前を言い直す。
愛果も朝長になったのだから、いい加減名字呼びは不味いだろうと思うのだが、どうしても昔の呼び名から離れることが出来ない。
スーツを脱いだ朝長が、ネクタイを緩めながらこちらをクローゼットから振り向く。
「うん?どうした?」
今日は残務処理に追われていたらしい彼が、疲れた眼差しを柔らかくする。
お互い明日も仕事だし、疲労感が残っているときに誘うのは良くないのだろうか。
以前はそういう気持ちにすらならなかったと言っていた彼だが、愛果には身体が反応すると正直に答えてくれたし、実際彼の熱をおぼろげに感じた事もある。
でも、そういう気持ちになれない夜だって、当然あるはずだ。
未だ他人の熱を知らない愛果には、そのあたりのさじ加減がさっぱりわからない。
だから、手探りで教えられたことを素直にやるしかない。
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