第34話 moon phase 29
滑らかな舌で狭い口内を余すところなく味わわれて、息苦しさを覚えたところで朝長がキスをほどいた。
愛果の反応を絶えず窺っている彼がタイミングを間違えることはまずない。
後数秒キスが長くなったら、愛果の手のひらが彼の肩を叩いただろうが、そうなる前に唇が離れて行ったので、持ち上げた腕は行き場を失くしてしまう。
愛果のそれをそっと迎えに来た朝長が、指先を絡ませて来た。
彼の愛車の助手席でひっそりと別れ際のキスを交わすことにも少しだけ慣れて来た。
そしてもっと慣れてしまう前に、愛果は朝長愛果になる。
医療従事者の愛果は爪を伸ばすことがない。
綺麗に切りそろえた丸い爪に透明のトップコートを塗っているだけ。
華やかなネイルアートをしているわけでもないし、爪の形自体が綺麗というわけでもない。
もっと言えば指の長さだって短めだ。
けれど、そんな愛果の手を愛おしげに撫でる朝長の視線はどこまでも優しい。
キスの余韻に目を伏せたら、彼がこてんと肩に頭を預けて来た。
「・・・・・・・・・あの言葉今から訂正出来ねぇかな・・・」
耳元で聞こえた悔しそうな声に、はて?と首を傾げる。
「ん?何のこと?」
「結婚するまでは遅くならないように送り届けますので」
愛果の両親と食事をした席で、誠実さアピールの為か好印象を与えるためか、にこやかにそういったのは他でもない朝長自身だ。
「ああ・・・・・・言ったね」
「結構本気で後悔してる・・・・・・・・・いま何時?」
「んー・・・とっ・・・っ」
スマホを取り出そうと後部座席に置いたカバンに手を伸ばせば、二度目のキスが降って来て、動けなくなった。
最近朝長はよくこういうキスを仕掛けてくる。
するりと入り込んできた舌がまた絡まって来て息を飲んだ。
あの日朝長がひた隠しにしていた事実を告げられて、結婚しても最後まで出来ないかもしれない、と言われた時も結婚の意志はこれっぽちも変わらなかった。
朝長と一緒にいられればそれで十分だと思えたからだ。
けれど、こうしてキスを繰り返していると、あの時の彼の言葉は本当なのだろうかと疑わしくなってくる。
愛果が油断すれば途端に抱きしめる手のひらが不埒な動きを始めそうで、キスの最中もずっとドキドキしているのだ。
いくら未経験でも、彼がそういう雰囲気になっている事は十分察することが出来る。
今の朝長の状態が、出来る状態なのかそうではない状態なのかはさっぱりわからないけれど、彼が愛果を欲しがってくれている事だけは理解できた。
嬉しい反面戸惑いも大きいのだけれど。
「じ、時間確かめれない」
「あとちょっと・・・・・・怪しまれないうちに帰すから」
頬にキスを落とした朝長が、火照った愛果の頬を撫でて目を細める。
「た、多少遅くなっても何も言われないけどね・・・・・・一緒なの・・・・・・知ってるし」
母親から生温い視線を向けられる事必須だが、愛果とて離れたくないわけではないのだ。
勿論このまま本当の大人の階段を上る勇気なんてないけれど。
愛果の言葉に朝長が真剣な表情で言い返して来た。
「知ってるから駄目だろ。結婚するまでは心証優先・・・・・・まあ、こうやっていられるだけでも・・・・・・いまは十分だしな」
「それは・・・うん・・・・・・私も」
綺麗にすれ違ったまま離れてしまった時間をこれからゆっくりと取り戻していけばいい。
誰も二人の仲を裂くことなんて出来ないのだから。
「・・・・・・もうちょっとだけ、抱きしめてもいいか?」
「え?・・・・・・う、うん」
改めて確認されると恥ずかしいけれど、勿論嫌ではないので素直に頷く。
愛果の返事に微笑んだ朝長が、背中に腕を回して抱き寄せて、そのまま愛果の胸元に頬を寄せた。
Vネックの胸元に彼の吐息を感じて心臓が大きく音を立てる。
「・・・・・・っちょ・・・」
愛果が上擦った声を上げると、朝長が宥めるように背中を撫でて来た。
「抱きしめるだけだよ・・・」
これも抱きしめるのうちに入るのだろうか。
何だか違う気がするけれど、身じろぎしたらさらに深く胸に顔を押し付けられそうで出来ない。
固まった愛果を上目遣いに見上げて、朝長が吐息で笑った。
「昔の俺がこんなとこ見たら、憤死しそうだな」
「・・・え?」
「いや・・・・・・なんでもない」
・・・・・・・・・
「なーコレ次誰だっけ?」
クラブハウスに戻って練習着から制服に着替えながら、部員の一人が紙袋を持ち上げて揺らした。
「あー俺もう見たわ。朝長じゃねぇ?」
「え、どれ、なに?」
「こないだの制服シリーズの第二弾。お前は絶対見た方がいいよ。やばいよ。寝れなくなるやつ」
健全な男子高校生らしい会話が飛び交う部室の隅に視線をやった途端、紙袋が宙を舞った。
反射的に受け取ったそれを開いてちらっと中身を確かめる。
制服シリーズの第一弾は噂通りの良作で、部員全員がお世話になって大満足した代物だ。
ちなみに持ち主は春に卒業した先輩だった。
素晴らしい置き土産が他にも部室のロッカーの奥に隠されている。
一瞬見えたブレザー姿の女の子の顔に、思考が完全に停止した。
「いや、無理だろコレ」
慌てて紙袋の封をして、隣の部員に押し付ける。
「え、なんでよ?似てるだろ、長谷愛果に。めちゃくちゃ興奮せん?」
興奮するから見られないのだ。
これ見て抜いて明日の朝どんな顔で彼女に話しかけろというのか。
「長谷の三倍は胸あるよこの子」
「あーそれなぁ。華奢で可愛いんだけど胸だけがなぁ・・・」
「女バスのほら、もう一人の副キャプの伊藤と胸だけ替えてくんないかなぁ」
「あーそれわかるわー・・・抱き心地がなぁ」
好き勝手に盛り上がる部員たちを尻目に、いい具合にはだけていた件のセクシー女優の顔を必死に頭の外へ追いやる。
あっという間に彼女の顔が愛果の顔と重なってしまった自分が情けない。
「知りもしねぇくせに抱き心地とか言うなよ」
「いや見りゃわかるだろ。あの細さだぞ。ぜってぇヤったら骨当たるって」
「・・・見んな、想像すんな」
吐き捨てるように言い返した途端、フォルダに保管してある一年生の頃の水着姿の愛果が脳裏を過った。
ほんの一瞬だけ、あの華奢な身体を抱きしめる自分を妄想してしまって、抱きしめるだけでは収まらなくなって、死ぬほど居た堪れなくなった。
「はーい、朝長が悶えてるから解散かいさーん!」
ロッカーのドアに額をぶつけて黙り込む朝長の肩を叩いて、キャプテンが声高にそう宣言した。
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