第19話 清和月

朝長の働く西園寺不動産の支店から、車で40分ほどの距離に愛果の実家はある。


公共交通機関を使うと大回りになるので1時間弱はかかるが、車通勤をしている朝長には大した距離ではない。


仕事で県境まで片道二時間かけて移動することも珍しくないので、ごくごく一般的なドライブだ。


朝長の返事を受けて、結婚を前提にしたお付き合いを始めることになった二人だが、愛果の朝長に接する態度は未だに高校時代のクラスメイトのまま。


大学時代のようなぎこちない距離感ではなくなったものの、ざっくばらんなやり取りができていた高校時代と比べるとかなりよそよそしい。


離れていた時間があるのだから、距離感が手探りになるのも無理はないのだが、あの頃よりずっと大人びた愛果を前にすると、高校時代の幼い自分が顔を出しては色気を備えた彼女を前に恥ずかしがって、大人の自分がどうにかいい恰好しようと見栄を張ってくるので、ずっと落ち着けない。


仮にも上司の娘と結婚を前提に付き合うことになったのだから、軽率な行動が許されるわけもないが、そのあたり、愛果の父親はかなり緩くて、二人さえ良ければ挙式前に新居で暮らし始めても良いとさえ言ってきた。


愛果は、あくまで結婚前提のお付き合い、と言い張って未来はその限りではないと父親に念を押していたが、朝長としては今のところ彼女以外を生涯の伴侶にするつもりはない。


あのお見合いから一気に甦って来たじれったい片思いは、朝長の心に久しぶりに火を灯した。


あの頃何度も夢想したように、愛果と始める新婚生活を毎晩のように思い描いている。


高校時代もそうやって、素晴らしいキャンパスライフを送れると信じて疑わなかったのだ。


もっと早く愛果に告白していたら、彼女が深く思い悩む事はなかったかもしれない。


もう二度と後悔はしたくない。


だから、早々にコネを使って新居も押さえておいた。


長谷本部長もは愛果以上にこの結婚に前向きで、自分の目に狂いはなかったと豪語している。


これまで一度も娘にお見合いを勧めようとは思わなかった長谷本部長が、最初のお見合い相手に自分を選んでくれたのは、もう運命だとしか思えない。


朝長としてはその運命に乗っかって引き返せないところまで行きついてしまいたいのが本音だ。


とはいえ、愛果の気持ちも確かめないうちから同居するわけにもいかないので、挙式の後から夫婦で暮らし始めますと最大限の誠意を示しておいたが。


愛果は結婚後も仕事を続けるつもりにしており、朝長もそれに関しては自由にしてくれて構わないと答えてある。


気持ちとしては、すぐにでも同居を始めたいが、長谷本部長の手前もあるし、何より朝長自身の身体の問題もある。


当然一緒に暮らし始めれば、その日が初夜になるわけで、まあ先延ばししても数日間何もなければさすがに愛果も怪しむだろう。


彼女を前にした時の高揚感や興奮は、確かに覚えのあるもので、けれど、それが愛果に触れた後も持続するかは分からない。


最悪彼女一人を悦くしてやったとしても、この関係がまともじゃないとバレるのは時間の問題だ。


事実を愛果に伝えるにしても、せめてもう少し彼女との距離を詰めてからにしておきたい。


最悪子供を作れないパターンも想定して改めてプロポーズするとなると、完全に朝長が不利になる。


子作り以外の方法を選ぶにしたって、すべての選択肢は彼女にあるのだ。


騙し討ちのように彼女とのお見合いを進めた直後は、愛果のほうから断られる可能性を考えたりもした。


あの日、愛果が朝長に向けた眼差しには、あの頃のような恋情や憧れはどこにも見当たらなくて、懐かしさだけが宿っていた。


けれど、愛果は朝長の返事に、否とは返さなかった。


だから猶更思いは募って、彼女と身も心も結ばれた夫婦になりたいと思ったのだ。






・・・・・・・・・・







午後診療が休診の木曜日を狙って、彼女の勤め先へと車を走らせたのはランチデートのお誘いのため。


外回り仕事の良いところは自分でアポの予定を調整できるところだ。


夕方のアポまで愛果と高台の隠れ家レストランで食事を楽しもうと決めたのは、今朝の事。


予定していた午後一の訪問先が、病欠でリスケになったので思いついた。


すでに医院は診療時間を回っていて、愛果に直接連絡を取ることは躊躇われたので、代わりに彼女の母親に連絡を入れた。


いつも午前診療のあとは自宅に戻って専業主婦をしている母親とお昼を食べると聞いていたからだ。


朝長の申し出に愛果の母親は喜んで娘をよろしくねと返事をくれた。


海沿いの田舎町は、広い土地を持つ一軒家が多く並んでいるが、飲食店はほとんどない。


ほとんどの住民が自家用車を持っており、郊外まで車移動するのがこの辺りのデフォルトになっているようだ。


営業仕事をしていなければ、愛果を連れていくお店に迷ってしまいそうなところだが、10年の営業経験が役立つのはこういう時だ。


人の少ないこぢんまりとした、雰囲気の良い店を何軒もピックアップして、愛果の仕事場からの移動距離と移動時間も視野に入れつつ最善案を導き出した。


食べ物の好き嫌いについてはまだ聞けていなかったけれど、ある程度融通が利く店なので問題ないだろう。


カーナビが表示する山尾医院の手前で車を停めて、どんな職場なのか少しだけ見に行こうと歩き始めて間もなく、敷地から男女の話し声が聞こえて来た。


「ほんとにすみません!うっかりしてました」


恐縮しきった声でお礼を口にした愛果が、白衣姿の男性に真っ赤になって頭を下げている。


自分たちと同世代だと思われる三十代前半の男は、恐らく医師の山尾だろう。


「気づいて良かったよ。明日までスマホ使えないと、連絡取れなくて困るでしょう?」


「連絡してくる人なんてほとんどいないんですけど・・・」


照れたように笑って目を伏せた愛果の気恥ずかしそうな様子は、初めて目にするものだった。


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