ラグドール

叶田あめ

チャプター1 綿、或いはビーズ

  十一月十日 十五時三十二分


『Hal_Nekoduka

 #忘れ物

 鈍色の空に急かされたのかな』

 このコメントともに猫塚ねこづかがinstagramに投稿した写真には、路上の“忘れ物”――大型トラック用のタイヤストッパーが映っていた。

「中々いい写真に、中々いい言葉じゃん! 沢山いいね貰っちゃったらどうしよ」

 猫塚は口角を上げながら言うと、スマートフォンをポケットにしまった。そして着ていたメンズシャツをたなびかせ、ステップを踏むように歩き出した。短い髪が踊る。

 この投稿はなんて事はない、川面に数多浮かび流れる木の葉の一枚に過ぎなかった。筈だった。

 直後、衝撃。猫塚のすぐ後ろから音が轟く。

 がしゃん。

 彼女は咄嗟に両手で頭を覆い、その場にしゃがみ込んだ。

 事故だ。写真に収めなきゃ。スマートフォンを取り出し、振り向いた。


 パシャ。


 画面を見て初めて事の重大さに気付く。有機ELが映し出したのは、倒れた電柱と、そこに突っ込んだ自動車――尤も、フロントと運転席の境が分からないほどぐちゃぐちゃになっていて、もはや車とは呼べないが――だった。ガラスが割れドアが曲がり、その隙間からは赤黒い液体が流れ出している。潰れて中身の出たぬいぐるみを連想し、その場に吐いてしまった。

 早く警察に電話しないと。それとも、消防が先だろうか。しゃがみ込み、顔を伏せたまま動けない。息をするのが苦しい。いつもより鼓動が速くなり、ドクンドクンと身体に響く。交通事故がこんなにもショックなものとは知らなかった。

 どれくらい時間が経ったのか分からないが、気分が落ち着いて、回りが見えるようになった。するとどうだろうか、ロックバンドがライブでもしているかの様な高揚した空気を猫塚は感じた。歩道を歩いていた人々は皆、池に餌を投げ入れられた鯉の様に鉄屑に群がっている。「おい、写真アップしようぜ」とか、「乗ってるの有名人だったらどうする?」だとか、危機感の無い言葉が聞こえてくる。中には、「何が起こったの」と状況を解せずに群れている者もいる様だ。人間とはこんなにも無情な生き物だったのか。だとしたら、自分は人間ではないなのかもしれない。

 その時だった。

「邪魔だ、どけよ!」

 怒号が飛んだ。トラクターのエンジン音みたいに、大きくて低いだみ声だった。一瞬の静寂の後「危ないぞ」という別の声が聞こえてくる。しゃがんだままの猫塚には、群衆のせいで見えなかったが、どうやら一人の男が車の中から人を救出しようとしているらしい。だけど、もう……。猫塚は思い出す、自分の撮った写真を。

 程なくして、サイレンが聞こえてきた。


 事故は歩行者を巻き込みさえしなかったが、運転手と同乗者は即死だった様だ。そのため、猫塚は目撃証言に名乗り出た。直接見た訳ではないが、事故直前と直後の写真があり、その中に原因の心当たりもある。路上に置かれていたタイヤストッパーを避けようとして運転を誤ったに違いない。

「今日は帰りなさい」

「え」

 男性警察官の言葉に、猫塚は憤った。捜査に協力しようとした者への返答とは思えなかったからだ。こちらは嘔吐し、未だ気持ち悪さが残っている。表情筋を使えるだけ使って不快な顔を作った。

「大丈夫か、君」

 警察官は彼女の背中をさすった。

「今日は休んで、また明日、落ち着いてから署に来てくれるかな」

 心配されてたのか。少し、罪悪感。猫塚は、他人の機微を読み解くのが苦手だった。彼女の脳裏に、一ヶ月前の出来事がよぎる。


 十月十三日 九時二十五分


「意味解らねーんだよ」

 彼氏だった男、桜庭亜蓮の声だ。猫塚の通うヘアサロン「SAKURA GARDEN」、そこに在籍する美容師であり、いつも指名していたスタッフであった。髪はすべてかき上げられ後ろに伸び、ショートカットの猫塚よりも長い。顎には髭が整えられ、左耳たぶにシルバーのピアスが光る。

「何で未だに俺の服着てんの? もう終わったでしょ」

 幾度もの朝にシーツの中で聞いた、怠そうな声と口調。それで以って桜庭は、美容室の鏡越しの彼女に語り掛けた。その像は、彼が貸したままのワイシャツを着ていた。コム・デ・ギャルソンを“返さない”事には怒らないんだから、優しい人だ。

「これ、好きなんだ」

 七分袖にも関わらず、長袖に見える程サイズの大きいシャツ。猫塚はその両のカフスを掴みながら言った。言わば、コミカルなお化けのような恰好だ。

「そういう事じゃないでしょ。何でその服を俺の前で着られるんだって訊いてんの」

 話をしながらも亜蓮の手は動く。タオルとクロスを猫塚に掛けた。首は苦しくなくぴったりで、流石元彼だと思った。そして、コームがスルっと髪に入っては、そこを鋏がザク、ザク、と音を鳴らしていく。

「質問の意図が分からない」

 スルッ、ザクザクザク。スルッ、ザクザクザク。

「やっぱ俺、お前と別れて正解だったわ」

「ちょっと、お客さんに無愛想にしないの」

 横から、オーナーで亜蓮の父の桜庭涼介の言葉が飛んできて、「すいませんねー」と亜蓮が軽口を言うかのように謝る。

 猫塚は、未だに彼の台詞をどう解くのが正解なのか分からない。未だに彼の事が好きだし、何故フラれたのかも分からない。だから今でも、偶然街で会ったときに喜ばせようと思って、亜蓮の服を着ている。


 十一月十日 十六時二十二分


「じゃあ明日いきまーす。事情聴取って言うんですよねー」

 彼女は、ワイシャツを正し、警察官に笑顔と敬礼を作った。名前と連絡先を伝え、その場を去る。

「ご協力ありがとうございます」

 黄色い銀杏の落葉がふっとどこかに消えた。


  十一月十日 十七時三十九分


 猫塚は玄関の鍵を開けた。

「ただいまー」

 マンションにある2LDKの部屋、それが猫塚の家だ。父親のしげると二人で暮らしている。

 リビングには煙草の残り香があった。茂はよく、ソファで吸っていた。臭いが嫌いだからやめてと何度も言っているのに。

 茂がいない。ということは、きっと今はパチンコを打ちに行っているのだろう。茂が家に帰るのは、殆ど寝るためだ。会社終わりは同僚と呑みに行ったりパチンコを打ったりして、休日は、二日酔いで潰れていることもあるが、それでも午後にはパチンコを打ちに行ってしまう。パチンコの何がそんなに彼を惹き付けるのだろう。猫塚は、茂の実家で祖母に訊いたことがある。

「昔はいい子だったんだけれどねぇ。はるのお母さんが死んじゃってから、まるで人が変わった様になったんだよ」

 猫塚は益々分からなくなった。お母さんが死んでショックなのは分かる。けれど、何故そこでパチンコに逃げたのか。娘を愛するという逃げ方もあった筈だ。あなたにとって娘とはその程度の存在なのか。

 猫塚は冷蔵庫から牛乳を取り出してグラスに注ぎ、自分の部屋へと向かった。部屋はLDKを共用、玄関から見て奥にある残り二部屋は西側を茂が、東側を猫塚が使っている。

 猫塚は自分の部屋に入ると勉強机にグラスを置き、脚に滑車の付いた重たい椅子に座った。

 猫塚は、Bluetoothスピーカーに電源を入れ、スマートフォンと繋いだ。そして、サブスクリプションサービスでプレイリストを掛けた。こうして音楽を聴くのが、猫塚の日課だった。特別好きなアーティストはいなかったが、邦楽洋楽含め幅広く沢山の音楽に触れていた。詳しさなら中々だと、猫塚は自分を評していた。

 そして、音楽を楽しみながらinstagramを開く。事故の前にアップロードした写真には殆ど反応が無い。センス無いのかな、結構いいと思ったんだけど。

 猫塚は疲弊していた。凄惨な事故の現場を目撃しただけでなく、その場で嘔吐し、そのまま警察官と少し話をしたのだから。だから猫塚は癒しを求めた。

『ねーねー(^_^)/』

『交通事故見ちゃった、死亡事故!』

『まぢ、やばい(-_-;)』

 送信先はアオイ。亜蓮の妹で、同じ学校に通う同学年の朋友。クラスは違うが、休み時間や放課後、よく一緒に過ごす。一度、兄妹とは知らずに、二人が一緒にいた事を厳しく問い詰めた事がある。それでも彼女は、ちゃんと話を聴いて、その上で事実を教えてくれた。それまでも彼女の事は好きだったが、それからは大好きになった。亜蓮とは別れたが、彼女とは一生の仲だと猫塚は思っている。結婚したら友人代表挨拶はアオイにお願いする。口にしてはいないが、そう決めていた。本当はその相手が亜蓮なら尚いいんだけどな。

 猫塚は家事が得意だ。茂が殆ど家に居ないため、何でも自分でやる必要があったからだ。一日の始まりは洗濯から。茂の寝間着を如何に早く回収するかが鍵だ。そして朝食を作り。茂の分まで作り、ついでにお弁当も作る。その後片付けをして学校へ。帰ってきたら掃除をし、夕ご飯の準備。茂が夕ご飯を食べるかどうかはその日にならないと分からないため、いつも二人分を用意する。尤も、家で食べることなど一月に片手で数える程だが。お米は翌日の朝まで含めて四食分の二合。余らないことなど稀なので、弁当に回す。夕ご飯を食べ終わったら調理器具と食器を洗って一日が終わる。生活必需品や食材が不足すれば、それを買い足すのも猫塚の仕事だ。

 さっき吐いちゃった分、お腹減ったな。牛乳飲み終わったらご飯炊こう。疲れてるし、今日は掃除しなくてもいいよね。

 猫塚は米を研ぎ始めた。彼女が本当に食べたいのは雑穀米だったが、一度何も言わずに食卓に出したら、茂は「嫌いだ」と怒った。普段家でご飯を食べない癖に、こういう変化を付けたときに限って帰ってくるのだから厄介だ。それならば、初めから独りの方がいい。

  十一月十日 十九時二分


 夕食までに、結局茂は帰ってこなかった。ただ、独りで夕ご飯を食べるのは、彼女にとって当たり前だった。たまにアオイを招いて一緒にご飯を食べたり、そのままお泊り会をすることはあったが、それ以外は殆ど独り。本当は外食して、そのままカラオケに行ったりボウリングをしたり映画を観たりしたかった。しかし、何もできない茂を思うと気軽には外出できなかった。どうしても外出したい時は作り置きをするが、その日と茂が帰る日が重なると嫌味を言われるためできるだけ避けた。

『Hal Nekoduka

 #ディナー #唐揚げ #シーザーサラダ #手作り

 揚げない唐揚げでヘルシーにしたよ!』

 猫塚は、夕食の写真をinstagramに投稿した。手作り料理の投稿にはいつもいいねが付く。生き甲斐の一つだ。

 夕食を食べ終えた彼女は、再びinstagramをチェックする。みんなキラキラとした日曜日を送っているようだ。そういえば、アオイから返信が来ない。昨日から家族でお出かけしているけど、ちょっとくらい隙を見て返信してくれてもいいのにな。

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