和睦の使者〜読切版
RIDDLE
・自己を確立する要素
和太鼓の音が鳴った。一定のリズムで打ち鳴らされるそれは、何かこの世ならざる存在を招き入れているような、気味悪さを感じさせていた。
陽が落ちた神社の境内の中心に二本の松明が飾られた。点火を務めたのは、作務衣姿の初老の男。松明が音を立てて燃え盛る。松明に挟まれた少年の表情は熱さを感じさせない涼しい顔をしている。
少年の服装は、白の半袖シャツに黒の七分丈パンツ。髪は森を彷彿とさせる新緑に染まっていた。火の粉が皮膚に飛んでくる状況で凛としている姿は、とても十代半ばの少年には見えなかった。
これから執り行われるのは、少年による”祓い”。この世の穢れを落とす
炎に照らされ、和太鼓の音を全身で感じながら、少年は”
現世への滞在証明書
肉体を持たない存在が身を守るための保護具
変幻自在の
これら様々な謂れのある代物。現世に存在する物質では作れない不思議な布。
衣を脱ぐとは、身を包む布を取り払うことを意味している。
衣を脱いだ少年は、深緑の下地に赤、青、金の布で装飾が施された道服と、同色の冠を纏った姿へと変貌していた。
少年の名は
「時間はかけられません、始めましょう」
薙の言葉に、背後の和太鼓の音の響きが大きくなった。音に合わせるように、一歩、また一歩と、薙の眼前の鳥居の先から足音が近づいてくる。
鳥居の先は、完全な暗闇だった。あの先は森だっただろうか。それとも川だったのか。はたまた、閑静な住宅街か。全てを飲み込む闇は、まるで異空間への入り口を彷彿とさせる。
足音の主の二人が鳥居の下を抜けて姿を現した。一人は、
彼を支えながら礼服姿の女性が一緒に歩いてくる。桃色の髪を肩までおろし、化粧をした大人びた女性は、薙の知り合い。名前を
彼女もまた、衣を纏って姿を変えている。
「さぁ、
「あ、あぁ……!!!」
白柳は、薙の姿と異様な雰囲気の神社に怖気付いた。首を激しく左右に振っては薙を見つめ、こう言った。
「俺を騙したな……!!! お祓いって聞いたのに!? 神主はどこだ!!」
湧き上がる怒りが、一時的ではあるものの、彼の中の恐怖と痛みを和らげる。彼が助けを求めていたのは、この神社の神主。もちろん、目の前の薙ではない。
「これより、簡易裁判を始める」
薙が体の前で両手をパンッ! と合わせると、彼ら二人の間に机が出現した。
☆☆☆
白柳と呼ばれた男は、裕福な家庭に生まれ、親の愛を受けて生きてきた。欲しいものは大体は買ってもらえたし、行きたい場所にも連れて行ってもらえた。しかし、彼はそれに満足していなかった。
彼は、疑問に思ったことを解決しなければ気が済まない性格をしていた。
なぜ、氷は水に浮くのか。なぜ、空は青から赤へ、そして黒へと変わるのか。
彼の質問は両親を困らせた。幸いにも、父親の知り合いに大学教授がいたため、白柳少年の疑問は次々に解決していくこととなる。
高校に進学した頃、彼が興味を持ったのは、化学だった。いずれは世界を揺るがす大発見をし、教科書に掲載されることを夢見て、大学の理学部へ進学。そこで出会った教授の出版する本の製本作業を手伝った影響で、化学反応を取り扱うブログを開設。来場者に、化学反応のどこが面白いのかを文章と図で解説していくようになった。
彼のブログ”白柳の研究室”へのアクセス数は、日に日に伸びていった。ブログへの来場者が来場者を呼び、まるで核分裂の連鎖反応のようにアクセス数へ指数関数的な上昇をもたらした。
白柳は歓喜した。
自分が面白いと思うテーマを、他の人も面白いと思ってくれている。自分は認められている。何より、化学嫌いの多い日本人に、正しい化学の知識を流布し社会貢献していると、ページビュー数が物語っているように感じた。
彼は、この経験によって
彼に転機が訪れたのは、それから五年ほど後だった。
同大学の大学院へ進学した後も、ブログの更新を続けていた彼のホームページに、一通のダイレクトメールが寄せられた。それは、ブログの称賛と共に、こう書かれていた。
“この素晴らしいブログをもっと広めましょう”
メールの送り主は
白柳は、黒瀬へ条件付きで本件を了承した。それは、情報に誤りのないように作ること。そして、あくまで趣味の域を超えない活動として行っていきたいというのが白柳なりのプライドだった。
ブログ作成にあたってボランティアで校正してくれた教授陣への敬意、掲載している文章の情報源となっている先人達の論文の数々。”巨人の肩に立つ”を意識し、相手への敬意を義務として持っていた白柳は、無償で正しい情報を提供することに誇りを持っていたのだ。
☆☆☆
黒瀬と呼ばれた男は、裕福な家庭に生まれ、親の愛を受けて生きてきた。欲しいものは大体は買ってもらえたし、行きたい場所にも連れて行ってもらえた。そんな彼が大人になって気が付いたのは、自身が”のっぺらぼう”だということ。
もちろん、妖怪ののっぺらぼうではない。彼の中には意志の支柱がなかった。
両親から与えられた愛は、自身の思考力を奪い、自立を阻害した。彼自身は、自分で考え、決断する能力が著しく低かった。その分、両親の指示通りに忠実に動いた結果、高い学力と経歴を持っていた。
それ故、彼には真の自尊心はなく、偽の自尊心で身を固めた男として大学生まで生きてきたのである。
そんな彼にも好きなものがあった。化学だ。学生時代は実験の授業だけは真面目に受講する程度には好きだった。目の前で姿形を変化させる物質同士。鏡に映ったような似た構造なのに、性質が真逆の物質。未知が既知になる感覚だけが彼にとっての生きがいだった。
だが、彼が化学を好きになった理由は、他にもあった。それは、本人すら自覚していない心の底に根を張る
“
偽の自尊心を持つ彼は、自身が称賛されるものが好きだっただけなのだ。
☆☆☆
誰が言ったか分からない噂……陰謀論……都市伝説……オカルト
いち早く情報を発信した者が勝つ情報社会では、信憑性よりも速度に比重を置かなければ他者に勝てないのだ。
化学は、皆が深く理解しようとしない。だからこそ、”正しい知識を流布する”をコンセプトに白柳は動いた。
それに対して黒瀬は、”化学に興味を持たせる”をコンセプトに、分かりやすく反応式を簡略化し、面白おかしく編集した映像を流行りのSNSに投稿した。これには、他者への優位性が隠れていた。タダ同然の素材を拾い加工し、アップロードするだけで再生数が増える。彼は慢心し、偽の自尊心を伸ばすことになった。
経験というバックグラウンドのある知識の説得力は凄まじい。対して、大した精査もせずにまとめ上げた知識の説得力は皆無だ。
説得力は、経験から得た知識によって培われる。
しかし黒瀬にとって、それらは部屋の隅に溜まる埃程度の存在。彼にとって大切なのは、自分を称賛する声と数字なのだから。
次第に、彼のコンセプトは、”化学に興味を持たせる”から”富と名声を増やす”へとシフトしていった。それに本人は気が付いていなかった。彼は、常に化学への興味関心を盾として自身の行いを正当化していたが、それは彼本人の言葉であり、その言葉に嘘はなかった。原因は、心の内側に隠れた本当の理由を彼が見つけられなかったからだ。
黒瀬の心は、彼自身を狡猾に騙し続けていたのである。
黒瀬は思った。もっと多くの人達に動画を見てもらい、化学に興味を持ってもらうにはどうすれば良いか。
そんな彼の目が止まったのは、人気ブログの”白柳の研究室”。
黒瀬から見ても、このブログは異常としか言いようがなかった。高等教育を終えていない者は間違いなく理解出来ないだろうという記事の数々。正直、黒瀬自身も書いてあることの意味を理解するのに長い時間を要したほどだ。
これは、一般人は理解できない。しかし、記事を読んだ時の満足感と高揚感。知識の階段を一段一段登るような、読了前後で知識量が変わる全能感が黒瀬を襲ったのだ。その心地よさ、快感は、今まで彼が味わった全てを凌駕していた。
もし、このブログの内容を、一般大衆でも理解できるレベルに咀嚼することが出来たら……そうしたら、どれだけの称賛を得られるだろうか。
黒瀬の心の中で、根底にあった感情がゆっくりと浮上し始めた。
汗ばんだ手をズボンの生地で拭うと、黒瀬はブログの主人に連絡を取ったのだ。
☆☆☆
突如現れた、“白柳の研究室”の動画版は大反響を呼んだ。アップロードすればミリオン再生は余裕で越える代物。他の投稿者の動画が霞んで見えるほどの超新星として輝きを放っていた。
絶賛のコメントが画面を埋め尽くした。黒瀬は震え上がった。ここまでの反応を、今の今まで味わったことなどなかったのだから。もちろん、参考元の白柳もこの事情を知り、歓喜した。
自身の理解者が増えていく。この感動は他に変え難い快楽となって白柳の全身を支配した。しかし、心のどこかに、違和感を抱いていた。
動画の中盤あたりの展開が、白柳の感情を一変させる。
反応式を、あまりに簡略化し過ぎている。これでは、次に説明する結論に矛盾が生じてしまう。あれも、これも、それも、全てが簡略化されている。白柳が寝る間も惜しんで執筆した解説文が、彼が頭を下げて借りた論文の内容が、その全てが中途半端なものとして目の前のモニターで展開されている。
たったそれだけのことと片付けてしまうのは簡単だ。ただ、正しい知識に拘っていた白柳にとっては大問題なのだ。自身のプライドが、目の前で展開される誤った情報の流布という事象を受け入れられない。
最も彼を苦しませたのは、この後に黒瀬が多くの称賛を得ていたこと。そこに白柳の名はなかった。
なぜ、皆はこの内容で満足しているんだ?
こんなに間違っているじゃないか?
なぜ、気が付いてくれないんだ!?
これを書いたのは、黒瀬じゃない! 自分なんだ! なぜ、自分の名を誰も口にしない!?
一般大衆は、白柳には興味がなかった。意味があるのは情報そのもの。語り手が白柳だろうが、黒瀬だろうが、他の第三者だろうが関係ないのだ。
今回の件を監修していなかったのは白柳自身のミスだ。責任は自分にあると、自責の念に悩まされる白柳。だが、”正しい知識を流布する”という約束を破ったのは黒瀬だ、と次第に怒りの矛先は、黒瀬へと向いていく。
彼は、自身のブログでこの件を綴った。感情の赴くまま、自身の怒りと悔しさを文に乗せ執筆した。黒瀬を糾弾した。感情を剥き出しにした記事が公開されると、こちらにも大きな反響があった。
白柳は、池に不満という石を投げ入れたつもりだった。しかしその波紋は、津波となって、黒瀬を襲ったのである。
大衆は、黒瀬を責め立てた。
お前は白柳氏の努力を踏みにじる侵略者だ。
お前は他者の知識を己が知識として披露する詐欺師だ。
お前は他者を見下す事でしか優越感を得られない愚か者だ。
お前には何もない。存在する価値がない。何も生み出せないつまらない人間だ。
彼らは古くから白柳のブログを読んでいた。彼らもまた、白柳の”正しい知識を流布する”という思想に共感した者たちだった。彼らにとって、白柳の屈辱は自身の感情と同義だった。
黒瀬には特技があった。それは、誰もが理解できるよう情報を加工する技術。
白柳が教科書を作る国側なら、黒瀬は教科書を使う教員側。
その特技すら、本件の言葉の波の中では流され、ただただ罵倒の言葉が容赦なく心を襲う。
そしてついに、大衆の言葉の波が、見逃していた黒瀬の歪んだ心を、本人に気が付かせてしまった。
☆☆☆
黒瀬が引退宣言をした。白柳は、その通知を見て勝ち誇った顔をした。約束も守れず、こちらの知識を自己の承認欲求を満たすための道具に使われた屈辱は、黒瀬自身の屈辱によって清算されたはずだった。
後日、黒瀬は自らの命を絶った。本件の誹謗中傷が、彼の奥底に隠れた歪な感情を彼自身に気が付かせたことが原因だった。
黒瀬は他者への優位性にしか興味がない事実を拒絶した。
そんなはずはない。
自分は、好きなものを多くの人に伝えたかっただけだ。
自分がこんな、醜いわけがない。
そう思い、今まで作ってきた創作物を眺めた。黒瀬は吐き気に襲われる。
それほどに自身の創作物が醜く歪んで見えたのだ。
創作物の端々から垣間見えるマウントの数々に耐えられなかった。
見れば見るほど醜悪なそれらに、自分の本心を認めざるを得なかった。
一体どこで間違ったのだろうか。そう思いながら、彼は自室の窓から身を投げたのだった。
☆☆☆
「……以上が貴方達の記憶ですが、お間違いないでしょうか?」
神社の境内の中央に置かれた机に座った薙は、首に掛けた手のひらサイズの円鏡を白柳に向けていた。
鏡は、罪人の過去と感情を映し出す”
「あぁ、そうだ……その通りだよ」
震える白柳の声が重なって聞こえた。身体が震えているからではない。彼の中に、もう一人いるからだ。
蒼白の表情で薙を睨みつける白柳の顔に重なるように、もう一人の顔が浮かび上がる。その顔は、先ほどまで円鏡に映し出されていた黒瀬という青年そのもの。
つまり、白柳は黒瀬の霊に取り憑かれているのである。
一つの身体に二つの魂は同居できない。必ず片方が拒絶され排出される。故に、憑依という状態は不安定。現在の白柳は、不安定な状態が祟って心身に異常を来たしていた。
白柳が黒瀬に憑依されたのは数日前。憑依直後、彼らは夢の中で邂逅を果たした。ただただ無言でこちらを見つめ続ける猫背の黒瀬に対して抱いた感情は、恐怖よりも憤怒が優っていた。
まだこの男は俺を苦しめるのか。もう顔も見たくないというのに。というのが白柳の本音だった。しかし、黒瀬の感情は苦痛に対する恐怖と焦燥感に溢れていた。それは現在進行形で続いており、必死に白柳の肉体の主導権を奪おうとする黒瀬に白柳も恐怖を抱いたのである。
「一体……この男は……何を恐れている?」
胸を抑え、肉体の痛みに耐えながら白柳が絞り出すような声を出し机に顔を埋めた。薙は、静かに彼を見つめている。
「現世は霊体を拒絶する……黒瀬さんが恐れているのは、”自身の消滅”」
パンッと両手を合わせると、薙の顔の横に台帳が浮遊した状態で出現する。この台帳は、”
「自己を確立するために、他者を踏み台にし、その歪んだ感情を心の奥底に隠し続けた……それが貴方の罪」
風もないのに、鬼籍が頁をめくった。
「そして、自身を拒絶しながらも、消滅を恐れ現世へ執着し、他者から肉体を奪おうとした……これもまた罪」
「何も……法に触れないだろうッ!」
声が変わった。これは黒瀬の声だ。
「僕たち閻魔の法は、現世の法と異なる」
薙が再び両手を打ち鳴らすと、机には金色の天秤が出現する。さらに、彼の右手には、金色の柄の上下が
天秤は、罪の重さを量る”アヌビス神の天秤量り”。
剣は、罪を洗い流す”不動明王の剣”。別名”
「倶利伽羅が、魂と罪を分離し、天秤が進むべき道を示す」
薙の剣戟は、あまりにも速かった。彼の姿が消えたと思うと、白柳の背後に立っていた。刃の軌道が一閃を描いていた。そして刃は、白柳の肉体を、間違いなく両断した。
しかし、白柳の肉体に変化はない。上半身と下半身が別れることもない。ただただ、椅子に座って誰もいない空席を見つめていた。
倶利伽羅には、殺傷能力がない。如何なる生物も殺すことが出来ない剣なのである。そんな剣だからこそ、魂から罪のみを分離することが可能なのかもしれない。
白柳の中の黒瀬の感情が落ち着いていく。罪を洗い流され、白柳の肉体を奪うという未練も薄くなっていった。自然と、彼は白柳から出て薙の前に立った。黒瀬が抜けたことで、ゆっくりと白柳の吐き気がおさまってくる。
黒瀬から分離した罪は、粒子となって天秤の片方の皿へ追加され、その重さから自然と天秤は傾いた。天秤の中央には目盛りが割り振られている。七つある目盛りが、これから罪人が向かうべき地獄の階層となっている。七つ目を越えれば、最下層行きだ。
「閻魔様……俺は……俺はどこに向かえば?」
「閻魔界への行き方は、貴方自身が本能で知っているはずだ……そこへ着けば、他の閻魔が案内してくれるだろう」
罪を祓っても、犯した罪の償いはしなければならない。黒瀬の霊体から、黒瀬だったという情報すら残らないほど洗浄され、無垢な魂になるまで、地獄で耐え忍ばなければならないのだ。
薙の視線が天秤の目盛りに移った。残念ながら、彼は最下層行きが確定している。人間の役割を放棄した”自殺”は、閻魔界の法の中で”最上級の罪”なのだから。
黒瀬が消えていく。完全に姿が見えなくなるまで、彼は白柳の背中を見つめ続けていた。彼は白柳になりたかったのかもしれない。そんな想いすら、既にここには存在しない。
☆☆☆
お祓いという名の断罪は完了した。浮遊霊に憑依された男は結果として救われたのだ。目に見えて体調が回復した白柳は椅子から立ちあがろうと足に力を込めた。そんな彼の両肩を暦が抑えつける。
まだ立ってはいけない。
裁判は続いている。
そう言っている暦の目が彼を見つめた。
白柳は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。彼がこの神社を選んだ理由は、彼の友人がここの神主を推していたためだ。白柳自身はオカルトを信じていなかった。しかし、被害者となって初めて”この世ならざる者達”を感知した。
黒瀬に憑依された彼は、真っ先に友人へと連絡をとった。迷っている暇などなかった白柳は、友人から送られてきた住所と神主の実績を見てここに電話をかけたのだ。
だが、感知したからといって理解したいとは思わなかった。自身の理解の範疇を軽々しく超えた存在に対し、抱く感情は嫌悪感だけだった。そこには興味も関心もなかった。だからこそ、早く自分の知る世界へと帰りたかった。
「もう終わっただろ……帰してくれ」
「いえ、まだです」
ゆっくりと、薙は白柳へと向き直る。
「貴方の裁判がまだです」
薙の浄瑠璃鏡が松明の光を反射した。
「なぜ……俺が裁かれる? 俺は被害者だぞッ!!!」
暴れる身体を暦が強く椅子に押さえつけた。椅子の軋む音と靴が石を叩く音が響く。
「貴方の罪は、自己の
白柳は誰かに、”正しさを求める”自分を理解して欲しかった。しかしその反面、他者を理解しようとはしなかった。彼が黒瀬の引退にほくそ笑んだのも、精神的な勝利に酔いしれていたのも、黒瀬の”理解のしやすさ”というアイデンティティを見下していたからに過ぎなかった。
「嘘だッ!!! そんなの……あり得ないッ!!!」
黒瀬の創作物に対する違和感は、唯一、白柳が黒瀬のアイデンティティに気が付いた瞬間でもあった。しかし、それでも彼が目を逸らした理由はただ一つ。
「自身の同一性を脅かされた貴方は黒瀬さんを排除した」
「俺と黒瀬が同じみたいに語るなッ!!! アイツは他人の真似事しか出来ない人間なんだ!!!」
「同じですよ……”自己を確立する”という点においては」
真の自尊心も、偽の自尊心も、どちらも自己の同一性に帰属する。彼らの創作物が、完全なる
理解しないのに理解されたいという嫉妬心。自分の領域を侵されたという不安。それらが攻撃となって顕現した結果、黒瀬の心を限界まで追い詰めた。
「自己の確立自体は罪でも何でもありません……しかし、黒瀬さんは他者の想いを踏み躙り、貴方は他者の思想を否定した」
実行の過程において彼らは失敗したのだ。
「だからこそ、貴方も裁きの対象なのです」
「ま、待ってくれッ! 嫌だッ!!! 死にたくないッ!!!!」
閻魔によって裁かれた罪は、地獄で洗われる魂の記憶や知識、経験と共に世界のどこかへ保管される。死者しか裁かない閻魔が、白柳を裁くと言っているのは、命を奪うと同義だと、彼は思い叫んだ。
その努力は虚しくも実らない。白柳に肉体を刃が突き抜ける感覚が襲った。次第に、心が安定を取り戻していく。揺れた精神が平坦に慣らされ、頭が冷静さを取り戻していった。それでも、どこか気持ちが上の空なのは、知りたくなかった自身の醜い部分が露呈したからだろう。
白柳もまた、黒瀬と同じ苦しみを味わい、理解した。
人の心は醜悪だ。いくら着飾っても、誰もが心の奥底には見たくもない感情を溜め込んでいる。それと向き合うのは辛い。苦しい。だから見ないように蓋をする。他者が同じ感情を溜め込んでいたなら、それを目の前で見せつけられたら、どれだけ不快だろうか。
「生者を裁いても死にはしません……現時点での罪を祓ったまでです」
薙が白柳を裁いた理由は、今後の彼に同じ罪を重ねさせないため。現時点の自身を見直し、改善してほしいという気持ちの表れでもあった。
白柳から分離した罪が天秤にかけられる。目盛りを指す針を見て、薙は静かに瞳を閉じる。
閻魔が裁く罪の重さは、時間でも戻さない限り減刑されることはない。白柳の罪は、死後にもう一度量られ、現在の罪に加算される。
閻魔とは中立な存在。
互いの思想がぶつかり合った時、片方に肩入れしてはならない。だからこそ、罪があるなら両者を裁く義務がある。そのため、たとえ生者だろうと忠告することしか出来なかった。
「これからは、今の事実を受け止めて生きてください……」
放心状態の白柳は、再び暦に支えられながら神社を後にする。彼の姿が見えなくなるまで、薙は見送り続けた。
☆☆☆
道中、白柳を支える暦は思う。
閻魔は中立な存在。
互いの思想が対立しても、介入してはならない。
これは、人の罪を裁く立場にある彼らに与えられた制約。
おそらく、人と同じ感情があったら成り立たないだろう。
白柳も黒瀬も、過程はどうあれ自己の確立を図った。それは、人間なら誰しも経験する事象なのではないか。心の中に立てる支柱は、それが本物だろうと偽物だろうと、その人にとっての生きてきた上での本心なのだ。
自己が確立されれば、中立ではいられないだろう。対立する思想など、無数に存在する。争いは避けて通れない。
それならば、閻魔という存在はその職務を全うする限り本心を持てない。
中立とは、自分の意見を持っていないも同然なのだから。
彼らは中立を望むのか、それとも本心を持ちたがるのか。
「中立で居続けてください……薙様」
赤い満月を見上げながら、暦は閻魔薙の行く末を案ずるのだった。
和睦の使者〜読切版 RIDDLE @RIDDLE_san
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