#022 乙女
眠らない夜が明け、第八係には俺と海崎さんばかりがいた。
眠気覚ましのコーヒー豆の匂いが部屋中に充満していて、中毒になってしまいそうである。いまだに湯気の立つマグカップを手に取って、一口飲めば、瞬く間に目が覚める味が舌いっぱいに広がっていった。
「めずらしいな。お前が公私混同するなんて」
海崎さんが、ぼそり、と独り言のようにそう呟いたのを聞き、俺は苦笑する他なかった。
「すみません、勝手なことであるのは重々承知していたのですが」
刑事という職の域を超えて、相方と行動を共にせず、その上、一容疑者候補と事件の捜査をしていたなんてことが上に明かされてしまえば、どんなことを言われるか想像もできない。これを累維に言ったら「案外、世の中というのはなんとでもなるものさ」と躱されてしまったのであるが、現にどうにかなっているのが現実の恐ろしいところである。
「まあ、構わないだろ。結果的に、またも、お前の力で事件を解決へと導いたわけだしな」
「それは」
「俺から言わせてみりゃ、運も実力ってやつだろ。お前は、つくづく刑事という職に愛されてるよ」
海崎さんは、いつもの低い調子のまま、憫笑する。しかし、俺はそれに返答することはできなかった。今回ばかりは、本当に俺は何もしていないわけで、全てが全て三栗屋の手の内であったと言っても決して過言ではない。
「にしても、三栗屋累維か……。お前は、どうやって知り合ったんだ?」
海崎さんは、突然こめかみに手を当てて、ため息混じりにそう聞いてきた。俺は、この人には隠し事が通用しないことも、今回の件で融通を利かせていただいたことも知っている。隠す必要はないと、率直に答えた。
「三栗屋累維ですか。単なる血縁関係があったというだけです。こういう時、関係者は捜査から外されるものでしょうけども」
「だから、お前もあいつも何も言わなかったんだろう? ……まあ、そういうことか。お前までもがあいつに落ちたのかと思ったが、そういうわけではないんだな。あいつにゃ、平穏に生きたければ疑われるような行動を取るんじゃねえぞって言っとけ」
ひとしきり言い切った後になにやら安心しきったように大きくため息をついた海崎さんへ、俺は少しばかり違和感を覚えた。
「“も”?」
「……気にすんな。大したことじゃねえからよ」
「はあ」
先ほどより少し熱の引いたマグカップを手に取り、もう一口苦さを飲み込む。海崎さんは、人差し指でデスクをコンコンコン、と叩きながら、ゆっくりと周囲を見渡し始めた。
「おい、ところで穂村はどうした」
「そういえば……見てませんね」
海崎さんにそう答えた瞬間、大きな音を立ててこの部屋の扉が開かれる。
「いますよ……おはざっす……」
その声と共に、一晩中寝ていないような隈が濃く、目が充血し、血の気の引いている顔をして、身なりも同じように乱れている穂村が入ってきたのである。
「すんません、別件の捜査をしていたら……眠れなくて……」
「で、成果はどうだったんだ」
「振り出しです……俺の労力を返して欲しいくらいですよね……」
ふらふらとしたまま、落ちるように椅子に座り込んだ穂村は、重力に従ってそのまま頭を下ろし、机でゴン、という音を立てた。
「お前、やっぱり一回ちゃんと柿原と仕事してこい。こいつが携わった事件はほぼほぼ解決するんだ。幸運の持ち主だからな」
「だからぁ、俺はぁ、死にたくないんです」
くぐもった情けない声で、海崎さんにそう答える穂村に何を声掛けすることもできないまま、俺はその場で苦笑した。
ふと、ラジオのようにかけっぱなしにしていたテレビの方を見る。事件の絶えない騒々しい日々が描き出されている中、ニュースキャスターの「次のニュースです」という声に、三人とも一斉に反応した。
——次のニュースです。今日未明、
どくん、と心臓が一鳴きした。
今度は背後から、大きな声と、扉の開く音がしてそちらを振り返る。
「と、突然すみません!」
「……どうした」
「こちらに柿原詩季さん、いらっしゃいましたよね?」
「ええ、こちらに」
「柿原さん、貴方が調べてらっしゃった事件についてお伝えしたいことが……」
入ってきた刑事は、息を切らしながらも、真剣な眼差しをこちらへと向けて、そうして告げた。俺は、この時ほど自分の悪運の強さを実感したことはないかもしれない。そうとさえ思えるような、事実が判然と告げられたのである。
「ステラが、見つかりました。
第一章 李下に冠を正さず 完
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