リバース・プロバビアル

夜明朝子

序章 待てば海路の日和あり

#001 枕言

 三味線と太鼓によって織りなされるメロディは、非常に軽快明朗で心地の良いものであった。幕の裏からひっそりと現れる着物姿に、その場の人々は皆手を叩き始める。この時間を待ち望んでいたといわんばかりの喝采であった。

 出囃子と拍手に紛れて、白い足袋が床をなぞる音は全く聞こえてやしない。金の屏風の前に置かれる朱色の毛氈もうせんに包まれた高座には、紫色の座布団が今か今かと重さを待ち望んでいる。木目を踏み締める。しかし、足元のふんわりと地につかない音は、誰にも聞こえやしない。壇上だけが明るく輝いているせいで、観客の顔はもう区別がつかないに違いない。

 するり、するり、するり。

 端正な顔を観客の方に向けて、妖艶ににへらりと笑って見せた。噺家は、羽織を払いながら、滑らかに今、高座に座った。携えていた扇子と手拭いを目の前に優しく置き、その細い腕を伸ばして膝の前で両掌を重ねて頭を下げる。一層、寄席の中に充満していた歓喜の拍手は大きくなり、もはや収集がつかない。そう思われた時、噺家は頭を起こし、小さく息を吸う。

 不思議な光景だ。誰の耳に入ったというのか、その音は。一度の小さな息遣いで、一瞬だ、一瞬にして会場がしん、となる。噺家は少しばかり目を見開いたかと思えば直ぐにその目を閉じて、耳から下げる朱色の房飾りを揺らしていた。

「ええ、みなさま。この度はいっぱいのお運びで、誠にありがとうございます」

「ここからは、わたくし、桃栗亭とうりてい柿八かきはちより一席お付き合いいただきたく思います」

 柔らかく重ねられた手の内では、静かに親指を擦り合わせている。何を話そうものか、と思案しているようなそぶりだ。とはいえ、観客にそれは見えない。体感一秒の無言の時間を超えて、会場全体が、息を呑んだ。

「少しばかり、身の上話でもしましょうか」

「わたくしといえば、昔から何かと巻き込まれる体質でして。某米花町にいる名探偵さんのごとく、いく先々で何かに遭遇する悪運を持ち合わせていまして……」

 そういうと、わずかに肩を縮こませて、にったりと口角をあげた。

「たとえば……そうですねえ。以前、別のとこで行った寄席でねえ、とっても素晴らしいホテルに泊まらせていただいたんですけれども、乗り込んだエレベーターがまさかの動かない」

「ほとほと困り果てましていたところ、なんと!」

 ぱん、と勢いよく一回だけ膝をたたいた。

「エレベーターの中には、なんともう一人、いたんですねえ」

「サングラスをつけて、胸元をがっぱと開けた怖あい、お兄さんでした」

 大きくグラスをかけるそぶりをみせ、着物の襟を開く動作をする。

 かと思えば、今度は顔を上手かみてへと振り、声を張った。

「やい、お兄さんや! これは困ったねえ!」

 今度は下手しもてへと顔を振り、手を一回ぱん、とたたき、指をさす。

「こんの疫病神! てめえの所為で予定がパアだ!」

 かと思えば、今度はまた肩を縮こませながらくっくっと愉快そうに笑みを浮かべる。

「なんて適当な言いがかりを言われましてねえ……」

「ええ、わたくしの過失は……ええ、何点でしょうかあ……、なんて聞いたらねえ」

十点じってんだって言うんですよう……。さすがのわたくしもね、これには思わず転けてしまいましたよ、そう、! ってねえ……?」

 高座から落ちてしまいそうなほどに、大きく転ぶ演技をすると、会場内から一斉に笑いが起こる。言葉が落ち、観客も落ち、噺家も落ちる。寄席は瞬く間に最下層に落ちていった。

 こほん、と一つの咳払いの後に噺家はつづけた。

「ええ、この疫病神といったもののようにねえ、この世にはいてほしくない神様というのも数多いるものでしてねえ……」

 そうだった、疫病神の話であった。

 それすら忘れてしまうほどの話術に圧倒されながらも老若男女皆皆が、食い入るように噺家の方へ視線を注ぎ続けた。

「これから皆様にお話しいたしますは、ええ、いてほしくない神様、つまりは……、この世に存在する死神の話で、ございます……」

 そこで、皆がはっとした。なにか心当たりでもあったのだろう……。そんなふうに、見える。

「“死神”なんていうとね、『アジャカラモクレンテケレッツのパー』なんてまじないとともに、蝋燭が消えてしまう話が有名でございましょうが……」

 噺家は、傍に置いていた扇子を手に取って、静かに杖をつく。

「……これからお話しする死神は、ええ、死神とは真逆の……、やさしく慈悲に溢れた神様でございます……。善の意に満ちた神様は……、実はその裏側で恐るべき死神と言われるようになってしまった」

 漆黒の眼はゆっくりと弓を引くように細められる。顔に影がかかり、先ほどまでの温かな笑いの空気とは打って変わってひんやりとした冷たい空気が寄席を包み込んだ。

「果たして死神は、いったいどうしてしまうのか……」

 にったり。

 そしてゆっくりとした動作で滑らかに両手を空気に置いた。そして何かをゆさゆさと揺らし始めたのである。



「……おい、死神さんや、死神さん。そろそろ起きないかい。……まったく、とんだ死神もいたものだねえ……」

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