柘榴と花緑青

ただのはる

在りし日の君へ

 あなた以上に好きになる人なんてこの世には存在しないと、そう信じて疑わなかった。


 目の前に広がる深碧の川がゆらゆらと、時々小さく波を立てて流れていく。穏やかな光景を目の前に、散歩に出始めた頃は燻っていた恋人への苛立ちも和らぎ始めていた。

 喧嘩の原因は、意見の食い違い。折り合いの付け所を模索して話し合ったものの、双方相手が自分の考えをうまく理解してくれないことに苛立ち、しまいには口論となってしまった。

『君っていつもそうだ!』

 その一言で私の堪忍袋の緒は切れてしまった。今まで溜まっていた相手への鬱憤を全部ぶつけて、全て言ってしまった気まずさと呆然とする相手から逃げるように、財布とスマホを掴んで散歩に出た。

 水面で時々魚が跳ねて水飛沫があがる。どこかで魚が跳ねた音がしたけれど、視界にその姿は映らなかった。

 景色を眺めて頭も多少冷えたことだし、そろそろ家に戻ろう。帰り道にあの人の好きなコンビニスイーツを買って帰ろう。そして、言い過ぎたことを謝って、もう一度きちんと話をしよう。

 これからのことを考えながら堤防の上に立ち上がる。視界に映った景色は、座って眺めていた時とはどこか別物だった。世界がどこか広く感じる。

「なに、今から飛び込みでもするの」

 景色に見惚れている横で、不意に不躾な台詞が飛んできた。私に言っているのかと思いながらも、聞き覚えのある声に驚いて声の主の方へ振り向く。

 振り向いた先には、私が予想していた通りの人物がニヒルな笑みを浮かべて私を見ていた。リュックサックを背負い、肩には四角い黒いバックをかけ、首からは先日買ったと言っていた一眼レフカメラが垂れ下がっている。

「・・・なんでいるの」

「ちょっと遊びにきた」

 ちょっとの感覚で来れる距離ではないだろうと突っ込むのも忘れて呆然とする私に、彼はなんでもないように話しかけてくる。

「俺昼飯食ってなくてさ、どっか飯食いに行こうよ。お前に会うとも思ってなかったしさ、話したいこともあるし。付き合ってよ」

 会うとも思ってなかったとか嘘だろと心の中で毒づきながら、最近友だちと行って美味しかった店をいくつかスマホで見せる。

 和洋中の店の中で彼が選んだのは、GoogleMapsに載っている店のメニュー写真の中にサバの塩焼き定食がある店だった。

「相変わらず好きだね」

「旨いじゃん」

 たった一言。そんなやりとりだけで学生時代を彷彿させた。

 過ぎ去った日々を、あの頃の淡い記憶を懐かしむように、彼と昔話をしながら目的の店に向かって歩いた。


 昼ご飯を食べて店を出た後、商店街をぶらぶらと二人で歩いた。

 カフェやほかの店に入るわけでもなく、彼が時々カメラを構えて写真を撮る姿を隣で眺めながら、他愛もない話を続ける。

「なあ、海行こうぜ」

 何の前触れもなく彼はそう提案して、近くの停留所の方へ歩き出した。

 私が断らないことを知っている上での行動なのかどうかはわからないが、こっちの都合なんてお構いなしというところも変わらないと、つい笑いが零れる。

「海までどのくらいかかる?」

「30分もあれば着くんじゃない?バスが停留所にいれば、待つこともないだろうし」

 かくいう私も、そんなに海へ行くことがないからバスの時間も知らないし、所要時間も大まかにしかわからない。

 突然組まれた海行きプランは、運よく停留所にバスがいたことで成功した。私たち以外乗客のいないバスに乗り込み、一番後ろの席に座るのと同時にバスは出発した。

 揺られて15分経つ頃、彼は隣で安らかな寝息を立て始めた。初めて見た彼の寝顔は、どこかあどけなさが残っていた。


「流石に海辺は寒いな」

 浜辺を少し歩くと、彼は眺めの良い場所で立ち止まってカメラを構えた。一直線に海を見つめて、瞳に映る光景をカメラに収めていく。

 その横で私はぼんやりと水平線と彼を交互に眺めながら、ふと展望台があることを思いだした。

「向こうに展望台があるけど、行く?」

「俺別に高い所から撮りたいわけじゃないから」

 提案はこっちを一目見ることもなく一蹴された。

 そうだ、こいつはこんな奴だった。

 呆れながら彼のツンケンしていた昔の姿を思い出していると、いつの間に彼は隣から姿を消していた。

 慌てて辺りを見回して姿を探すと、いつの間にか彼は数メートル先を歩いていて、バス停の方へと向かっていた。

 一言かけてくれればいいものを。

 溜息をついて彼の元へと急ぐために足を踏み出した矢先、彼がこちらを振り返った。

「行かねえの」

 その言葉に目を丸くする。次に、こういう奴だったと思わず微笑が零れた。

「行くなら一言声をかけてくれてもいいんじゃないの」

「なんか考え事してそうだったから、放っておこうと思って。どうせ追いついてくるだろうし」

 売り言葉に買い言葉。そんな会話しかしていなかった学生時代になんだか戻ったような気分になりながら、彼の隣に向かって走り出した。


 海から舞い戻って再びぶらつき始める頃には空もとっぷり暮れていた。夜空は澄んでいて、月や星がいつもより格段と美しく、そして輝いて見えた。

 彼が駅に向かう前に、商店街の広場で行われているイルミネーションを見に行くことにした。

 日曜日ということもあって、多くの人―特にカップルが多かった。傍から見たら私たちもそう思われているのだろうかと一瞬考えたが、友人に見られていたらややこしいことになりそうだと、問い詰められる様子を想像して軽く身震いする。

 私が考えていることなんて露ほども興味がないであろう隣の男はイルミネーションを撮るのに夢中で、通りすがりの人が写真に入るのが嫌なのか時々舌打ちをしている。

 そんな彼に苦笑しながら、彼に時間は大丈夫なのかと尋ねる。彼は時計を一瞥すると、カメラを下ろして駅の方へ向かって歩き出した。私も彼の隣を歩き出す。

「今日は楽しかった」

 彼の横を歩きながら、今日を振り返る。

 何とも言えない再会から始まった一日は楽しく穏やかで、高校時代に戻ったような、懐かしい夢を見ていたような、そんな感覚だった。まるで明晰夢を見ているかのようだった。

「俺も久しぶりに話せてよかった」

 駅の中へ入る。電光掲示板に映し出されている時刻と腕時計を彼が交互に見て、「もう少し時間があるな」と呟いた。

「夕飯結局食べなかったよね。なんか買う?」

 コンビニを指差し尋ねたが、彼は首を横に振った。

「いや、帰ったらなんかあるだろうからいい。それより聞いてほしいことがある」

 大真面目な顔をしてこちらを見つめる彼に、思わず私も背筋を伸ばして彼を見つめ返した。

「復縁しないか」

「は?」

 まさか今この場でそんな話をされるとは思ってもなくて、純粋な疑問と驚きの入り混じった言葉が口から飛び出た。彼は私の戸惑いを気にする様子もなく更に言葉を重ねた。

「今日一日お前と過ごして、お前とならこの先も支え合っていけると思ったんだ」

「復縁、してくれないか」

 お互いに小説を書いて読み合った相手とは思えない程陳腐な告白だった。私の気持ちなんて訊いているようで聞いていない。

 過去の、それこそ彼に片恋を拗らせていた頃の私だったなら、嬉しさから泣いて即答しただろう。

 けれど今私の脳裏に浮かんでいるのは、目の前の彼との思い出ではなく、昨晩ハーゲンダッツを美味しそうに頬張っていた今の恋人の姿だ。

「今の恋人、世界でいちばんやさしい人なんだよね」

 私の言葉の意味は、彼に届いたのだろう。虚を突かれたような顔をしたかと思うと、眉をハの字に曲げて困ったように笑った。

「そうか、それはよかった」

 彼の視線が電光掲示板へと流れる。別れは近いようだ。

「俺さ、今度結婚するんだ」

「結婚式、呼んでもいいよな」

 こいつにも結婚する相手ができたのかと一瞬驚いたが、すぐに不敵な笑みを頭の中で想像しながらフッと笑って返事をする。

「もちろん」

 彼はその言葉を待っていましたと言わんばかりに、キャラに合わない、弾けるような笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

 お礼を口にすると、彼は改札口の先へと消えた。ホームへと続く階段を少し上ったところで彼が振り返り。私に向かって小さく手を振ってきた。

 私も振り返し、彼の姿が見えなくなると、スマホを取り出して恋人に電話をかけた。

「もしもし?私。ごめん、出ていったきり帰らなくて。心配させてごめんね」

 ワンコールで出た恋人の声はとても焦っていて、私の罪悪感は増した。一応連絡はしておいたのだが、それでも私のことをかなり心配してくれていたのだろう。安堵の声に少し涙声が混ざっていた。

「君の好きなものを買って帰るよ。ハーゲンの他は何がいい?」

 電話の先から次々とコンビニスイーツの名前が飛んでくる。そろそろ健康診断ではなかったかと思いつつ、すべて買って帰ると約束した。

 電話を切り、コンビニへ向かおうとして、ふと改札口の方へと振り返る。

 当たり前だが彼はもういなくて、面影すらも感じられなくて、今日のことが本当は嘘だったのではないかと錯覚してしまいそうになる。まあ夢かどうかは、彼の結婚式の招待状が知らせてくれるだろう。

 彼の結婚式に行ったら、一言こう言ってやるのだ。


 どうか幸せに。あなたは私の、世界で一番大好きな人でした。

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