春はそこまで

そうざ

Spring will be Here Soon

 パジャマのまま肩をすくめて新聞を取りに行ったら、隣人が塀越しに、まだまだ寒いですね、と陰気に挨拶をして来た。私は露骨に不機嫌な顔で応えてやった。

 我が家の南側に居を構えるこの隣人は失業中らしく、毎日ふらふらしている。奥さんは少し前に子供を連れて出て行ったようで、失業保険で食い繋ぎながら寝た切りの実母の面倒を看ているらしい。

 二軒先の家々はもう桜が蕾を膨らませているというのに、我が家はまだ寒椿が冬の侘しさを醸している。くだんの隣家に至っては、未だに霜柱が張っている始末だ。


 間違いない。

 隣人が春を堰き止めている。


 ところが、その日の夜、事態は急転した。

 そろそろ就寝やすもうかと思った頃、急に外部おもてが騒々しくなった。

 見ると、隣家の前に救急車が停まっていて、その周りを野次馬が取り囲んでいる。何でも介護の最中に母親が食べ物を喉に詰まらせて意識を失ったらしい。

 赤色灯の瞬きが、普段から血色の悪い隣人の蒼褪めた顔を照らしている。放心状態なのか、無症状のまま救急車に同乗して走り去った。

 その夜の内に母親は息を引き取ったという。


 翌日から隣家は一変した。

 庭木は青々とし、色取り取りの花が咲き乱れ、爽やかな薫風もそよいでいる。心なしか、古呆ふるぼけた家屋までが立派に映る。程なく妻子が帰って来て、愉し気な団欒の声が聞こえるようになった。


 遂に春は隣家まで来てしまった。

 もう他人の所為せいには出来ない。


 二浪中の息子は毎日何処を遊び回っているのだろう。夫はそんな息子をたしなめようともしない。そんな男達に私は何も言えない。何も言う気になれない。夫婦関係も親子関係も冷え切っている。

 翌朝、新聞を取りに行くと、我が家の北側に居を構える隣人が門扉の外までやって来て、射るような眼差しで挨拶をした。

 春を堰き止めやがって――そう思っているに違いない。

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春はそこまで そうざ @so-za

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