第10話

「なんだ。琵琶湖のあるところですか」

「琵琶湖は日本一の大きさだが、妻の地元には日本一綺麗だと言われる湖がある」

 正直な話、東北に住む自分にとって、世界は東京までで構成されている。関東圏より西に行ったことがないし、西日本の知識がないところで困ることはないからだ。そもそも地理には疎く、秋田と岩手、どちらが右か左かすら危うい。店主に奥さんが居たというのには少なからず驚きを覚えたが、それよりも日本一綺麗な湖の話に心惹かれた。

「英語の辞書とか、問題で見たことがある気がします」

「The most beautiful lake in Japan is...」

 店主は懐かしそうに二重カルデラ湖の名を呟く。カルデラと聞くと決まって茶色い駄菓子を思い出す。あの甘さが好きだ。カルデラ湖とは、噴火などが原因で陥没したところに水がたまりできた湖のことを言う。一回の噴火でできたカルデラ湖というのはよくあるが、二重というのは珍しい。二回に渡って穿たれた穴は深く暗い。地上の美しさにもひけをとらず、深い深い水の塊が命を差し出せと誘う。湖を観覧するフェリーで行きと帰りで乗っている人数が違うというのは本当の話だ。美しい観光地で死にたがる人は案外多いものだが、死に様を晒したくない人間にとって、遺体が死蝋化してなお浮かばないほどに深く、ダイバーが捜してみてもなかなか見つからないという神秘的なところに魅力を感じずにはいられないのだろう。

 いつだったか、家族旅行でその湖を見に行った。湖畔には有名な像があり、静寂な神社があり、地元の米を使った伝統料理が売られていた。あの名物は秋田のものだ。僕は秋田と岩手の位置関係を確かめる度に、あの観光地を思い出す。自分で自分の命を絶たざるを得ないときにはあそこで死にたいと思う。実際にはひとり孤独を背負って死ぬのであったとしても、当人にとっては自然に還るのと同じなのだろう。樹海で人が死にたくなるのもそういうことなのだろう。

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