自転車

澄田ゆきこ


 自転車は、走っている間は、倒れないでバランスをとっていられる。

 どこにも帰らないと決めたあの日から、私は必死に自転車をこいだ。

 日に日に「家」が遠ざかっていくのは小気味よくて、だけどふいに背後を振り返ると、家々の灯りの中にどこにも私の帰る場所がないことに改めて気づき、ちくりと胸が痛んだりもした。

 私は毎日、自転車をこいだ。

 流れていく景色。上がる体温と呼吸。髪を逆巻かせる風。風は爽やかに汗を乾かすときもあれば、ペダルの負荷として正面からぶつかってくる時もある。上り坂のときは、息を切らせながら、必死にペダルを踏んだ。下り坂のときは、鼻唄まじりにタイヤを滑走させた。楽しいことばかりではない。でも、ふいに、耳を切る風が気持ちよく感じることもあって、そういうとき私は、自転車に乗っていてよかったと思った。

 私の自転車は、まわりに比べてひどくぼろぼろだった。最初はまわりと同じぴかぴかの新品だったはずなのに、風雨に晒されたり、転んだり、あるいは故意に蹴飛ばされたりものをぶつけられたりしているうちに、かごはひしゃげ、チェーンは錆び、ボディには見えない程度の傷がたくさんついていた。

 私はタイヤの空気の入れ方ひとつ知らなかった。ギアも電動アシストも何もない。メンテナンスをしたり、新しいものに買い替えたりしてくれる人もいない。だけど私は、むきになって走った。

 真新しいロードバイクが颯爽と横を通り過ぎて行った。私が坂道で喘いでいるとき、電動自転車がすいすいと坂を上り、視界の中でどんどん小さくなった。いつの間にか傾斜は急になっていき、たびたび私は、速度を保ちきれずに転んだ。そのたびに、かごが曲がり、ハンドルや車体に傷が増えた。

 一度倒れてしまった自転車を戻し、坂道をもう一度こぎ出すのは、楽ではなかった。けれど、私は前に進まなければいけない。呼吸を整え、もう一度ペダルに足をかける。必死に坂道を上る。傾斜はどんどん急になる。追い越していく自転車が、ひとつ、ふたつ、数えきれないくらいに増える。筋肉は悲鳴をあげているけれど、私は歯を食いしばった。

 人より早く自転車をこぎ出したはずなのに、いつの間にか私はどんどん誰かに追い越されて、気づくと前にはだれもいなくなっていた。足がもつれたり、ぬかるみに滑ったりして、転ぶことが増えた。転ぶたびに自転車を立て直した。ねじが緩んでかごがガタガタ音をたてても、油の切れたチェーンがきしきしと音をたてても、ブレーキのききが悪くなっても、私は走ることに執着していた。みんなずっと先を走っている。大人になれば、ひとりで自転車に乗れるのが当たり前だった。

 ある日、もう何度目かもわからない転倒が起きた。長い坂は終わりが見えなかった。その横にある脇道の下り坂に目をやっていて、前方がお留守になった途端、ペダルが空回りし、私はバランスを崩した。

 私の自転車は派手な音を立てて吹っ飛び、私も地面に擦り付けられた。膝に、肘に、大きな擦り傷ができた。血が滲んでいた。痛みに顔をしかめた。手足よりも鼻の奥が痛くなった。だけど、泣いても何にもならない。小さい子供みたいに泣いても、慰めてくれる人もいない。

 自転車は廃車同然にぼろぼろだった。ついにねじが外れ、穴の開いたかごが傍に転がり落ちていた。

 手にも足にも力が入らなかった。そんな時、急に、うちに寄って休んでおいでと言う人が現れた。その人がくれた水は、乾いた喉には砂糖水のように甘かった。帰る場所をなくした私には、ありがたすぎる申し出だった。私は痛みがひくまで休んでいくことにした。その人は自転車の整備も請け負ってくれた。タイヤのパンクを直し、チェーンに油をさしてくれた。見た目は相変わらずみすぼらしい自転車だけれど、少しは走りやすさを取り戻した。

「また、つらくなったら帰っておいで」

 その声を背中に聞きながら、私はまた走り出した。また上り坂を上るのは恐ろしく、私は誘惑に負けて脇道に足を延ばした。

 最初は舗装されていた。そのうち石が増えてきて、あちこちにひび割れがあることに気がついた。それでも私が走り続けていたのは、下り坂が楽だったからだ。私は得意になって飛ばした。道はどんどん、暗く、細くなっていったけれど、大丈夫だろうとたかをくくっていた。

 ふと、道の向こうに、放置されたままの倒木が見えた。勢いづいてかっ飛ばしていたせいで、ブレーキがきかない。私は焦った。脇道にそれる間もなく、私は思い切り倒木にぶつかった。ふわりと宙を舞った一瞬が永遠のように長かった。街灯もない、暗い道。脇に茂った林の下生えの、黄緑色の葉ひとつひとつがくっきりと見えた。

 私は地面に叩きつけられた。ハンドルが手を離れる。ガシャーンと派手な音がした。自転車のタイヤが空回りして、チェーンが鳴る。

「ばらばらになって壊れてしまう前に、その自転車、ちゃんと直してもらったほうがいいですよ」

「その道、危険だからやめておいたほうがいいですよ」

 そんな風に忠告してくれた人の声を思い出す。私は自転車を立て直し、よろよろと立ち上がった。捻挫したのか、一歩踏み出すたびに、左足がずきんと痛んだ。

 それでも、前に進まなければ。自転車を走らせなければ。頭ではわかっているのに、どうしても、自転車に乗るのが怖くなった。私は座り込んだ。いつの間にか迷子になっていることに気がついた。子供の頃みたいに恐怖が押し寄せてきた。私はどこに行けばいいのだろう。わからなくて、気づくと涙がこぼれていた。

 そんな時、またあの人が通りがかった。何晩か私を泊めてくれ、自転車の整備をしてくれた人だ。

「そんなにつらいなら、また、うちにおいで」

 私はその手に縋りついた。その人は、自転車ごと私を運ぶために、軽トラックを持ってくると言った。それまで待っててねと。

 私は暗い林に一人とりのこされた。湿った地面に座り込んだまま、私はその人を待った。自転車で走っていた時にはわからなかった、烏の声や獣の声、虫の羽音さえ、恐ろしかった。気を抜くと足元から細長いムカデが上って来ようとした。ひっと声をあげて振り払う。立ち上がることすらできないまま、私は今か今かとその人を待った。

 無間地獄のようだった時間は、ちゃんと終わった。遠くから軽トラックのヘッドライトが近づいてくる。立ち上がれない私は抱え上げられて助手席に乗せられ、ぼろぼろの自転車もちゃんと荷台に乗せられた。トラックが走り始めると、私は滾々と眠りに落ちた。

 やがて、懐かしい家に着き、私と自転車は降ろされた。

 改めて見ると、自転車はひどい有様だった。けれど、まだ走れる。走れたはずだった。あの道は、細いけれどちゃんと続いていた。走れなくなったのは、私が調子に乗って飛ばしていたせいだ。誰がどう見ても、自業自得だ。そんなことで、こんなところで音を上げた自分が情けなく、ふがいなかった。

「整備士の人に、ちゃんと見てもらいましょう」

「大丈夫。今はちゃんと休みましょう。焦ってあの自転車で走り出したら、また転んでしまいますよ。あなただって今、こんなに傷だらけだ」

 その人は、私にそう言って、ひとつ寝台をあてがってくれた。布団の中にもぐりながら、私は自転車で走っていない事実そのものに怯えていた。こうしている間にも、みんな、走り続けている。私はうさぎと亀のうさぎだ、と思った。休んでいる間に、どんどん距離を置かれる。

「焦らない、焦らない」

 呪文のようにその人は言う。けれど私は、ずっと焦ってばかりいた。

 傷が癒えてくると、私は少しずつ、寝台から起き上がれる時間が増えた。また自転車に乗らなくてはいけない。強迫観念は心の根っこにこびりついて離れなかった。整備士はいつ来るのかわからない。自転車がどれくらい悪い状態なのかも、いつまた走れるようになるかも、わからない。

 おんぼろ自転車でも、ひとり走っていることが、私の矜持だった。矜持を失った今、私の自信になるものは何もなかった。自分がひどく惨めだった。それまで無意識に見下してきた人たちすら、私の先にいる。窓から見える自転車や、すごい速さで走り去っていく車を見ながら、私はずっと焦りの炎に炙られていた。

 手足はどんどん癒えていくのに、私は自転車に乗るのが怖くて、同時に自転車に乗っていないことも怖かった。

 整備士は時折やってきた。この辺りは整備士の数が少なくて、仕事は先の方までぎっちり埋まっているという。整備士さんが私の自転車を見れる時間はほんの少しで、その度に少しずつ自転車は直っていくけれど、いつまた走れるようになるかは、整備士にもわからないようだった。

「今は、目の前の修理からやっていくしかありません」

 整備士は言って、また次の仕事へと去って行った。

 うちの車に乗せてあげようか、という人もいた。そうすれば、私は助手席に座っているだけでいい。昔は、女の人はみんなそうしてきた。けど今は、女の人でも、――それが自転車であれ、車であれ――自分で運転をするのが当たり前になっている。もちろん、助手席に座る人もいる。けれど、私が目指していたのは、自分で運転ができる人だ。かつての私の矜持の延長線上。

 助手席に座るのは楽だ。だけど、自分で道を決められないし、何かのはずみで事故を起こせば自転車よりも悲惨なことになる。だけど、自分で走れない今、助手席に乗ってもいいよという誘いは恐ろしいほど甘い蜜だった。だけど、そんな甘言に乗る自分を、私は好きになれる気がしない。だけど。だけど。だけど。

 永遠に続く逆接の中で、私は動けないでいる。

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