第5話 2/3 勇気を出して
2023年2月3日金曜日 第1週目
放課後
今日も放課後はみんな予定があるらしい。
私立受験が終わってからほとんど全員で帰る機会がないことは正直悲しい。
まあ、俺以外は塾に行ったり、図書館で勉強したりしているから仕方がないけれど。
俺も勉強はしているけれど、自分の家でするのが一番だからあまり時間の制約を受けない。
結局、1人で荷物をまとめて帰る準備をした。
その時、自分の机の近くにある平野さんの机がふと目に入った。
平野さんは今日も学校に来ることはなかった。
生まれつき体調がよくない平野さんなら2日連続で休むことは珍しいことではないけど、本命の公立高校の受験が残っているから心配だ。
俺は、教室にカギをかけて職員室にカギを直そうとすると、後ろから小走りでたったったっ誰かが近づいてくる音がした。
俺がふと振り返ってみると、そこにいたのは平野さんだった。
「どうしたの?」
俺は率直な疑問を平野さんにぶつけた。
「ちょっと忘れ物しちゃってね」
走った影響もあって少し呼吸が乱れた状態で平野さんはやって来た。
「鍵貸してももらえる?」
俺はそう言われると右手に持っていたカギを平野さんに渡した。
「ありがとう。鍵は私が直しておくね」
俺はありがとうと言ってそのまま帰りそうになったけど、これは一緒に帰るチャンスなんじゃないだろうか。
「俺も忘れ物あったから一緒にカギは俺が返すよ」
あまりにも雑すぎる嘘。
まあ、あの瞬時に俺が考えたにしては比較的にましだといえるだろう。
平野さんはありがとうと言った。
そして、平野さんが探し物を見つけると、頃合いを見て俺も忘れ物を見つけたように一緒に教室を出た。
「ねえ、一緒に帰らない?」
なんだかこのままだと別々に帰りそうな雰囲気だったので、俺は今のうちに直接口で言っておいた。
「いいよ…」
平野さんはいつもとは少し違った笑顔で頷いてくれた。
平野さんと2人きりで帰るということは今までほとんどなかった。
受験前まではほとんどみんなで一緒に帰っていたけど、一番の理由は島田さんが幼馴染で家がすぐそばということもあって、大抵の場合は島田さんも一緒にいるからだ。
だからこそ、このチャンスはできるだけ生かしたい。
ただ、何の話をしたらいいのか分からない。
ここは無難に勉強の話にしておこう。
「平野さんは、カフェとかで勉強してる?」
「んー、あんまりしないかな。お金がかかるし」
「そうなんだ」
そういえば、平野さんの家は妹がいるという話を聞いたことがあった気がする。
金銭的に大変な面も多くあるんだろう。
一人っ子の俺からしたら分からない世界だ。
「成実くんはどこで勉強しているの?」
平野さんは少しだけ目を前に向けて、表情を緩めて俺の話に乗ってくれた。
「俺は、家かな。一人っ子だから兄弟にじゃまされることはないし、親はどっちも夜まで仕事しているから」
「そうなんだ。私は下に妹がいるしお母さんも家にいるからなかなか集中するのが難しいから家ではなかなかはかどらないんだよね。ただ、他に場所も無いから仕方がないんだけど」
俺は、休日は図書館で勉強していると言おうとしたところで一つの考えがよぎる。
これはチャンスなんじゃないか?
誘い方によっては休日一緒に会う口実を作ることができるのではないか。
ここは言葉を慎重に選ぼう。
「平野さんは図書館とか言ったりする?」
「3年生になってからはあんまりないかな」
「近くの市立の図書館の3階に自習質があるんだけどそこで勉強してみたらどうかな。すごく静かで勉強しやすいよ」
「そうなんだ。今度行ってみようかな」
「うん。そうしてみるといいよ」
平野さんってたまに抜けている。
正直、家が集中できないなら図書館の自習室を使うことは俺でもすぐに思いついたし少し考えてみれば分かりそうなのに。
まあ、鈍感なところも含めて可愛いのだけど。
それに、理想としてはここで一緒に行かないって誘って欲しかった気持ちもある。
でも、さすがに平野さんは振られたばっかりだしそれは無理だな。
「成実くんはその図書館によく行くの?」
これはどうしよう。
毎週土日は行っていると素直に答えることもできるが、これで平野さんが自習室に来なかったら俺がいるから行くのをやめたと考えてしまって俺の身が持たない可能性もある。
ただ、どっちにしても俺は受験が終わるまではこの図書館の自習室を使うつもりだからいずれ分かる話か。
平野さんが少し考えている俺を少し下から見上げるようにして見てくる。
「うん。毎週土日は基本的に朝から夕方まではいるよ」
俺は、いつも勉強している時間を正直に話した。
「そうなんだ」
平野さんは笑顔でうなずいた。
そして、少しの間ができた。
でも、このままこの話題を終わらせたら今までと変わらない。
今、この場にいるのは一緒に帰っている平野さんだけだ。
だから、万が一失敗したとしてもあのグループの誰も悟られることはないだろう。
もう、あと一カ月で卒業だ。
そして、鉄平への告白の現場を見てしまった。
もう今までの3年間を信じるしかない。
俺は、ゆっくりと重い口を開けようとした。しかし、まるで本当に口にチャックがついているみたいに重い。
怖くて平野さんの顔も見ることができない。
ただ、このまま終わりたくない。
もう一度心の中でそう唱えるとゆっくりと口を開けることができた。
そして、ゆっくりと言葉を口にする。
「ねえ、平野さん。もしよかったら来週一緒に図書館に行かない?」
やっと言うことができた。
言いたいけど言えなかった一言を言うことができた。
今までみんなで遊んだことは何度もあるが、2人だけでどこかに行くということはなかった。
ただ、返事が来ない。
まあ、当然の反応だけど…。
そして、平野さんがゆっくりと口を開こうとしたのが感覚で分かった。
「ごめ…」
「ねえ!」
平野さんが何かを言いかけたタイミングで俺のほうから話を遮った。
ありったけの勇気を振り絞って。
「平野さんって好きな人いる?」
俺は足りない頭で必死に考えた言葉を告げる。
もう、また今度はないんだと頭に言い聞かせながら。
「それは……」
平野さんは言葉に詰まったような感じだった。
「俺は、好きな人がいるんだ。まだ、付き合っているっていうわけじゃないんだけど」
「え…」
平野さんは少し動揺というよりは以外そうな表情をしていた。
「俺は、その子の全部が好きなんだ。優しい性格も、心が落ち着く声も、真面目に勉強しているところも、あともちろん顔もすごく好きなんだ」
平野さんは何を言っているのといった不思議な人を見る表情をしている。
「それで…」
俺は、今日一番の穏やかでしっかりとした声で平野さんの正面を見た。
「俺と明日、一緒に、勉強のついでとして、図書館デートの練習に付き合ってくれない?」
俺と平野さんの間に沈黙の時間が流れた。
さすがに、一昨日のことがあったから厳しいだろうか。
デートではなくデートの練習としてならOKをしてくれるかもしれないという俺の考えはやはり厳しかっただろうか。
でも、どんなに頑張っても卒業式の日は変わらない。
その日以降は何か理由がないともう2度と会うことはないんだ。
俺は、平野さんを信じて前を向いた。
そして、平野さんは少し考えるような仕草をとった後で、少しだけ吹っ切った表情をして小さな声で返事をした。
「私でよければ…いいよ………」
この日俺は、人生で一番の幸せと共に新しくて小さいけれど確かな一歩を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます