第20話 推し道
魚眼レンズのように視界に端がぐにゃりと歪み、全てがアリアで埋まる。
見えない、見えない、見えない。
彼女しか見えない。
その熱い吐息が、僅かに潤んだ瞳が、上気した頬が、妖美に俺の心をマドラーでくちゅくちゅと掻き回す。
「……とろけちゃってる」
アリアが俺の顔をしっとりと両手で挟んで固定する。
それから──己の顔を近づけ、下唇がチュッと吸われる。
「ぷはぁっ」
身体は動かず、瞳も動かず、声も出ず。
俺はただただアリアの接吻を受け入れる。
彼女の触れた部分から感覚がなくなってゆく、痺れる。
これは正しく魔王的で、極めて乱暴で情熱的なまぐわい。
映画のワンシーンなどでは決してない。
プリンセスベッドなどどこにもない。
「んん……っ、は」
彼女は欲するままに愛する者を喰らっているのだ。
魔王たる本能か、大蛇のように這い回る舌が俺の口内に侵入し、一つ一つ歯をなぞってゆく。
「ぅき。すき」
官能たる響きの数々が脳神経を犯してゆきショートする。
閃光のように火花が散る。
「ん──っ、はふ」
一つ、また一つ、俺の中のスイッチがパチパチと強引に押されてゆく。
小石を水面に投げると波紋が広がり、水底の砂利を巻き上げるように。
──たー君はアルフロのことしか考えてないんだね。
「しど、シド……っ」
──そんなだからいっつも大切な事を見逃すんだよ。
「すきっ、しゅ、き。もう──」
──でも、一途なんだね。アリアちゃんに妬いちゃうな。
「がまん……できないよ。
──たー君なら本当にゲームの中に行っちゃうかも。もしそうなったらさ、絶対アリアちゃん幸せにしてあげなよ。じゃないと許さないから。
朧げな記憶の水底で、艶やかな黒髪の女子高生の後ろ姿が見えた。
かなり小さい、大分遠くに行ってしまっている。
絶対にもう会うことはないだろう。
俺はその姿を今も昔も追うことはしなかった。
悪いとは思わない。
当たり前だ。
心に決めた人がいるのだから。
恋愛感情──という感情とは似て非なるものだが、俺の心のキャパシティは既にその人で一杯になっていたのだ。
世界を越えるほどの想いは重い。
たくさんの物、人を捨ててきた。
シドとなる前も、なってからも。
ただひたすらにその人を推したいがために。
だからこそ俺は必死に手を伸ばそうとする。
殻を破るがごとく力を振り絞る。
「──っ、ぅぉぁおおあああああ!!!!!」
「きゃぁ!?」
シようとしていたアリアを優しく押し退けて華奢な両肩を掴む。
浅い呼吸を繰り返す彼女の潤んだ瞳、頬を伝う涙の乾いた跡を目に焼き付ける。
彼女は怯えるようにして目を逸らす。
「……ごめん、怒っちゃった?」
魔法をかけて強引に襲ったことか?
それは違うな。
俺はアリアの全てを受け止めるつもりだから、そんなことで気を損ねたりしない。
しかし、
「ああ、怒ってる。不甲斐ない自分にな」
「へ?」
アリアが泣いてる?
俺のせい。
アリアが不幸になってる?
俺のせい。
アリアが荒れてる?
俺のせい。
全ては俺の力不足のせいでしかないのだ。
「いいか、俺は全てが終わってからじゃないと『そういうこと』はしないぞ?」
「え……脅し?」
「ああ脅しだ。俺の
「え、えぇ……?」
元来推しとは手に届かぬものなのだ。
アンタッチャブルで神のような存在、それが推しだ。
手に届く位置に来たからなんだというのだ?
図に乗るんじゃあない下郎め。
「ここでアリアと一緒になるのは確かに魅力的だ。だが、そうなれば戦には負けるだろうな」
「……なんでそう思うの?」
「目標を無くした者は弱くなるからだ」
「答えになってる……かな」
「なってるさ、今、俺の話をしているからな」
「……………………え?」
アリアは目と言葉を泳がせる。
「えと……うん、整理していい? シドは私とすることを目標としているけど、それは今じゃダメってことかな」
「ああ。でないと己を殺したくなる」
「そこまで……? よく分からないわ」
彼女はどこか嬉しそうに口元を歪めて髪をくるくると弄る。
それだよ。
その何の変哲もない笑顔をいつでも何処でも見られるようになった時がゴールだ。
少なくとも今みたいに、この部屋でしか見せられないような状況ではない。
「ふふ……っ、抑えられなくなった自分がバカみたいね」
アリアは乱れた服を直して指を鳴らす。
すると、瞬時に景色が変わり下から猛烈な風が吹き付けた。
「転移か……」
「頭と顔を冷やそうと思ったの、付き合ってくれる?」
「もちろんだ」
眼下には都の街並み、見上げれば黄金の月。
「私ね、あの月まで行ってみたいんだ。子どもの頃からの夢……なの」
月を背景に羽根をはためかせるアリアはまさに
月が綺麗ですね──と、月並みな感想しか浮かばない。
それに、夢だと?
決まってる。
「行けるさ。俺が連れて行く」
「……はっ、素敵。さいこうね」
来て──と彼女が手招きするとふわりと身体が上昇する。
アリアの前まで来ると見つめ合い、するりと両手を絡め合うようにして繋ぐ。
さっきのような乱暴極まるまぐわいなどではない。
互いの感触を確かめ合い、認識し、脳の髄にまで染み込ませるために行う優しい愛撫。
離さないし離れない。
磁石のように引かれ合う。
かけがえのない時間を味わい尽くすように、月下を舞い続けるのだった。
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第二章 了
次章はバチバチに戦り合っていく感じになります。
エピローグの絵も見えてきたので、何とか描き切りたいところです。
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