2-4.「語の種類」

2-4-1.語部

📖この節では、次の項目について説明する。

  【しゅ

   🖈日本語の過度なじゅうなん

  【じゅつ

   🖈省略された語部の推定

  【しゅうしょく

   🖈修飾語に連体連用という概念は必要か

   🖈目的語という概念は日本語に存在させるべきではなくってよ



      †



📕【しゅ

 〈体言として機能する語のうち文の主体となるもの〉転じて〈主語を省略された文において本来存在するはずのそれ〉の意。

 〝「偉大なるこのおれ様」が来てやったぞ〟〝「←隣でなんか言ってるヴォケ」がいるよ〟などがこれ。


 そういや例に挙がってる奴ら、「軽口たたき合ってる二人が隣り合ったポジションに立ってる」という事で、つまり〝お前ら仲良いな〟って話なんだけど、書いてない事を容易に推察できるって人間の脳ヤヴァイよね。

 まあ、そういう部分を解説してしまうのは〈結果のわかりきった解明作業〉の意で〝かえるかいぼう〟とも呼ばれるもので、無粋ではあるので、何らかの作品中ではあまりしないほうがいいかもしれない。


   📍日本語の過度なじゅうなん


 日本語では、〈体言にともなわれるはずの用言〉として機能する「じゅつ」が、なぜか自立語。

 ゆえに主語が省略可能であり、その結果として何について言及している文なのか、判然としなくなる場合がある。

 また、この主語省略の可能性を失念すると、たとえば自動詞と他動詞の判定などにおいて、その解釈を失敗させるもの。

 これが日本人のみならず、世界のみなさんまでをも困らせている。


 ほか、固有名詞の動詞化とかいう、わけのわからない許容までもが存在する。

 たとえば日本人なら〝モーツァルトできるよ〟という言い回しに対し、〈私はモーツァルト的な作曲ないし編曲ができる〉と解釈できるだろう。

 しかしこれを見た他国語圏の人たちは、〝人造のモーツァルト……だと……?〟と困惑に右往左往することになるだろう(

 さらには「Canキャン Mozartモーツァルト.」とか英語表記してみれば、〝文法エラーです、やり直してください〟みたいな、ゆうづうきかないコンピュータと化してしまうに違いないんダ(


 やべーよ、ニポンゴやべーよ……‼(



      †



📕【じゅつ

 〈主語に対して用言として機能する語〉転じて〈述語を省略された文において本来存在するはずのそれ〉の意。

 〝ぼくは日課の「反復横跳びをする」〟〝昨日ぼくは「ねこいどまれた(そして負けた)」〟などがこれ。


   📍省略された語部の推定


 なお[じゅつ]を省略され、体言的な語だけが単体で存在する文は、用言的な文が直後に続く場合を除いては、「しゅ」ではなく[じゅつ]だと解釈したほうが言葉として自然である場合も多い。

 たとえば、


  • わたし。ここにいる。

  • 人であって人ならざるもの。わたし。


の前者の〝わたし〟は、後に続く用言的な文「ここにいる」の主語になる。

 一方、後者の〝わたし〟は、「わたし⦅でる⦆」のように省略された用言「でる」に接続する修飾語であり、それを含めた全体が、直前の文〝人であって人ならざるもの〟にかかる述語である。

 まとめると、


  • わたし[─主語─]ここにいる[───述語───]

  • 人であって人ならざるもの[──────────主語──────────]わたし⦅で是る⦆[──────述語──────]


という事になる。



      †



📕【しゅうしょく

 〈主体となる語に結び付いてそれをより詳しく説明するぞく語〉の意。


 には限りが有り、無数のかたちで存在しうる意とは、一対一で対応できるものではない。

 よって、複数の語を組み合わせることで、目的の意を特定していく必要が出てくる。

 この組み合わせに用いられる語のうち、主体に当たらない語を修飾語と呼ぶ。

 次のものが有ると


  • れんたいしゅうしょく:体言に結び付修飾語

    〝「歩いた連体修飾語」「道のり体言」〟


  • れんようしゅうしょく:用言に結び付修飾語

    〝「道のり連用修飾語」「歩いた用言」〟


 ここで、〝道のり〟と〝歩いた道のり〟では、〈歩いた〉との付加情報の有無によって指される対象が若干変わり、後者は〈歩いていない道のり〉を除外する意味を指すようになる。

 このように〈対象を限定すること〉を「とくしゅ」と呼び、語を特殊化させる事を修飾と呼ぶ。

 修飾を重ねる事によって語の指す意味を限定するので、高度に特殊化された語ほど長いものとなり、『superスーパーcaliカリfragilisticフラジリスティックexpialiエクスピアリdociousドーシャス』などはまあ多分なんかそういう感じである(


   📍修飾語に連体連用という概念は必要か


 ところで例を見てもわかるとおり、連体か連用かという分類は、何でもかんでもつなげた後から、その結果について判別をしていく性質のもの。

 つまり結合させる前に区別ができるわけではないので、実務上ではほぼ役に立たない区別かと思われる。

 品詞の分別をする場合にはかぎとなってくるが、その品詞の分別自体が本則でそもそもアレだから……(


   📍目的語という概念は日本語に存在させるべきではなくってよ


 〈述語動詞の操作対象になる修飾語〉を「もくてき」とお呼びになる方もいらっしゃいますけれども、これは外来の概念ですわ。

 そのように定義されますのは、外の言語では構文が明確だからですの。

 ですが、日本語では意味解釈が終わってはじめて「目的格の修飾語」と判定できるものでございますわ。

 つまり、その別名を定義しても解釈のお役には立ちませんのよ。

 この違いは、英語などでは解釈が構造に依存するのに対し、日本語では文脈に依存する特性から来ておりますわ。

 そういえば、英語圏民族では個の尊重が強いのに対し、日本民族では集団の尊重が強いという特性もございましたわね。

 おそらくそれが、語や文の扱いにも反映されているのでございましょう。

 ですのに、「意味かんかつの要素」を「文法かんかつの要素」として無理に解釈しようとするのは、まことに焦点のずれた話でございますわ。


 たとえば、〝本を「読む」〟のような動詞を他動詞とお呼びになり、それにかかる「本を」の部分を目的語とお呼びになる説も見受けられますわね。

 けれどもこの解釈は、非常に疑わしいものでございますの。

 なぜなら、目的語とは述語動詞の操作対象のことであり、動詞の自他動などまるで関係ございませんのよ。

 にもかかわらずなぜ、それを引き合いに出されたのでしょうかしら。

 そも、主語に接続する助詞は「は」、特に主語を強調したい場合には「が」となると、文法上でそのように限定されておりますでしょう。

 なのになぜ、助詞「を」が接続されたものを主語などと勘違いなさったのでしょうね。


 おそらく、日本語としては常である主語省略というものを、失念なさっているのではありませんか。

 それに、自動詞と他動詞は、その名称の通りに品詞として機能が決まっているものであり、本来は文脈によって変わる性質のものではありませんのよ。

 この「読む」という行為にはきまって読者が存在するのですから、「読む」はつねに自動詞でございましょう。

 すなわち〝本を読む〟という文には、〝⦅だれがしは⦆本を読む〟というように省略された主語が存在するのです。

 そして、ここでの「読む」は省略主語に対し、きちんと自動詞として機能するんですのよ。

 主語省略の可能性を忘れると、日本語解釈はすぐに失敗してしまうのですわ。


 他動詞とは、〝木は柱を「造る」〟のように、自身のかかる主語格の体言こそが他から操作される、ということを意味する動詞を指すものでございます。

 また実際のところ、この文は木の用途の一般論を述べているもので、木で柱を造る動作を述べているわけではないのです。

 では、この場合の目的語を判断する手掛かりは、もはやどこにもございませんでしょう。

 合わない概念を無理に当てようとなさっても、解釈がとどこおるだけではございませんか。

 たしかにこちらの「造る」については、文脈によって自動詞か他動詞かが変わる様子ですが、それは状態を述べるという特殊な用法のうちに限りますのよ。

 ほかの大半の動詞にそのような用法はございませんから、むやみに一般化なさらないことですわね。


 それ以外に、〝彼は資金を「集める」〟と〝彼は注目を「集める」〟でも一見、自他動が変じているように思えましょう。

 しかしこちらも特殊な例で、前者は本来「あつめる」と書くべき自動詞の別語であり、「集める」はおよそ他動詞として機能するものですの。

 すなわち、自他動詞などというものは基本として存在せず、その限りでないものはすべて特殊例なのであって、個別の理由をたどる必要があるのでございます。

 そのようにご理解いただいたほうが、日本語の解釈ははかどるものと存じますわ。


 「かくげんがく」という分野ではこのように、とうでない概念をむやみに当てつけることが、しばしば見受けられますの。

 こちらの言説は不思議と勢力が強く、日本の学者までもが感化なされているご様子ですが、是非とは勢力の強さで判断するものではございませんでしょう。

 文脈によって構造が揺れる文脈依存言語を、構造依存言語と同列に比較できるだなんて、そんな事があるはずが無いではありませんか。

 無いものは無い、それで何がそこまで不都合だとおっしゃるのでしょう。

 ネイティブと異なる理解をしようとした場合のへいがい、日本でのわゆる受験英語に対してたびたび指摘されてきたことではないかしら。


 目的語という概念を無理繰り説明したいがために、それとは無関係な動詞の自他の区別までをもじ曲げる、大変愚かしいことでございますわ。

 そも、動詞が掛ける主語と、動詞に掛かる修飾語とでは、関係性が真逆であるのは構造上当然の事でございましょう。

 ですのに、機能上でまってく変化していない動詞を、ただ切り取り方が変わっただけで品詞までをもころころ変えるなど、まるで無意味ではございませんか。

 解釈が複雑化するだけのものとしか理解できませんし、そんなものをたんがみられない状態のものにかぶせるだなんて、一体どのようなおつもりなのかしら。

 それがもし、〝第二言語習得者のために、他国語の定義をねじ曲げろ〟というお話ならば、お「ふざくんな」でございますわ!

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