3.〝言〟

3-1.「言の正体」

3-1-1.言葉の源泉

📖この節では、次の項目について説明する。

  【げん

   🖈ことことばの違い

   🖈言葉の抽象性と語の具象性

   🖈言葉の正体はクオリアか

   🖈クオリアにまつわる言説

   🖈語の誤用とトラブル

   🖈語を遣う覚悟

   🖈不適切な語の設計

   🖈トラブルの分別

   🖈日本語の超越的複雑性

   🖈言葉の意味と歴史



      †



📕【げん

 〈意を説明するために発露するもの〉転じて〈過去にだれかが発した言葉〉の意。

 [こと][こと]と書いて同義。


 昔の時代には、〝「こと」は「こと」で表現されるので実質同じもの〟という認識から、どちらも{こと}と呼び、区別していなかった。

 それがやがて、ちゃんと区別しようという気運が高まったとき、発音上でも区別できるよう〈多数ある構成要素〉の意の「」が加えられて「こと」になった、とされる。


   📍ことことばの違い


 言葉とは、人が個々それぞれで認識している感覚のこと、と考えることができる。

 たとえば生まれつきもうもくの者は、〈🟣むらさき〉などの色情報に関する言葉感覚を持たないもの。

 そのため、〝むらさき〟という「ことば」だけを知っても手持ちの言葉感覚と照合できず、「〝むらさき〟と呼ばれる〝いろ〟というものが有るんだろうな」と想像できはしても、〈🟣むらさき〉色へ辿たどりつく事はできない。

 逆に色覚を有し、かつ〈🟣むらさき〉色を目にした事のある者ならば、たとえ〝むらさき〟という「ことば」など知らなくとも、あるいは後日失明しようとも、〈🟣むらさき〉の色覚という言葉感覚を自身のうちで認識し、それをたよりに〈🟣むらさき〉色を思考に浮かべるはやすい。


 よく聴かれる〝ひとことによってこうする〟とはこの事を示すものであり、つまり「ひとかんかくによってこうする」と同義だ。

 これを「ひとことばによってこうする」のように誤解すると、意味するところが失われる。

 ほか〝ぶんことしゃべれ〟とは、〈いていないこと、すなわちかんかくできていないことばをふりまわすのは、もうもくひといろかんけいことばをふりまわすのとおなじだぞ〉という警告。

 けっして「聞きかじったことばを遣うな」という意味ではなく、だいいちそれを言い始めたら自作の造語以外は全部聞きかじりだ。


 なお、この感覚というものには、後天的に増やせるタイプのものが有ると考えられる。

 それについては、節『4-1-2.概念と観念』で説明する。


   📍言葉の抽象性と語の具象性


 そんなわけで、言葉とは語に依存するものではなく、たとえば

 

  • 私は1つの筆を持っています、私は1つのリンゴを持っています。

  • I have a pen, I have an apple.


では、姿だけ見ればまったく別物であるが、しかし発言としてはまったく同一だ。

 さらには、


  • I 筆 having、

  • オンドゥルルラギッタンディスカー!!


などと記述したとしても、語や文法としてはたんするかもしれないが、言葉としては成立する。

 もっと言えば、「bodyボディ languageランゲージ)」は明らかに語ではないが、明らかに言葉を伝えている。

 つまり、「こと」とは文字などでは表せない「ちゅうしょうてきなにか」であり、だからこそ異なる言語間でも翻訳が成立するわけだ。


   📍言葉の正体はクオリアか


 ただ一応、それについて当てずっぽうの私見を述べておくなら、


  • 言葉とは概念に対するクオリアである


と推定する。

 ……って事を自力で思い付いたんだけど、どうやら同様のことを脳学者の茂木健一郎氏がすでに言ってるらしいねショボーン(


 「qualiaクオリア」とは大まかに〈質感〉の事で、それは例えば「紫という色」「メジャーコードを聴いたいんしょう」「塩素のにおい」「楽しいという気持ち」など。

 実物の提示やたよらずには、「具体的にこういうものだ」とは直接説明することができない、そういう部類の「かんかくけたときぼくらがじっかんするかんしょく」を指す。

 「ことはクオリア」と仮定すれば、


  • 神経とは感覚を処理する器官であり、頭脳はその親玉

  • 言いたい事が有るのに、それを表現する語が出てこない場合が有る


などといった所から、合点が行くものである。

 ほか、いわゆる「かん」の正体もおそらく、〈「こうだ」と思っていたものに何らかの別のクオリアを感じたが、それを表現する語に思い当たらない状態〉を指すもの。

 だからこそ、「違和感とは決して無視してはならないもの」とも言える。


   📍クオリアにまつわる言説


 ならびに、人工知能などを語る際、〝「のうとはなにか」という定義はまだ具体的にできていない〟という話も出されるものだが、これに対し


  • のうとはクオリアをけてそのたいおうけっていするもの


と定義できないか、との疑問をここに投げ掛ける。

 だとすれば、SFによくみられる「人間そのものの人工知能」を実現するには、まず「〝クオリアを受け付ける〟とはどういう事か」と考えるのがその糸口、と予想される。

 とはいえ偶然にたよらないかぎり、言葉で説明できないものは人には実現不可能なので、くだの知能の実現は結局遠い話か、とは思われる。

 現状では高性能の「AIエーアイArtificialアーティフィシャル Intelligenceインテリジェンスじんこうのう)」が登場してきているが、AIはクオリアを感知できないという点で、判断のされかたは人のそれと大きく異なるものである。


 ちなみに、これと同列の考え方が、別途存在する。

 〝人の行動はすべて「受けた感覚クオリアに対する反応」であり、ゆえに「人の自由意志」とは幻想であって実在するものではない〟というものだ。

 まあ、〝それでは〈人はその努力によって未来を変える事はできない〉との「運命論」をこうていする事になる〟として、これを認めない勢力はなかなか強い。

 が、ただ「運命論だから」というのは単なる感情であって、特に否定の理由には当たらない気はする。

 かつ、ただ一本道の線路だというだけで、旅の車窓はそこまで詰まらなくなるだろうか、とも個人的には思う。

 ぼくが何かを語ることが運命だったとしても、それはぼくが現実にたしかな影響を与えていると十分せるものなのだから、そんな気にするような事でもないように思えるわけだ。


 ほか、〝「自分が紫と思う色」と「他者が紫と思う色」が、同一のものではない可能性が有る〟との説も存在する。

 言葉がクオリアならば、「単なる音や記号のれつでしかない」語が、どの言葉を指し示すと認識されるかも、人それぞれで必ずしも一致しない。

 そして、色が個々どう見えているかについては、照合が不可能。

 たとえば「紫の波長の光=〈むらさき〉」、「赤の波長の光=〈あか〉」としたとき、一般には〈🟣むらさき[紫]〉〈🟥あか[赤]〉のように感受されるもの、という事にはなっている。

 だが照合不能である以上、同じ「むらさき」でも〈🟣むらさき[紫]〉〈🔴むらさき[赤]〉、「あか」でも〈🟥あか[赤]〉〈🟪あか[紫]〉のように、人によって同一には感受されていない可能性が否定しきれないわけだ。

 ゆえに「〈🔴むらさき[赤]〉のつもりで〝紫〟」、「〈むらさき〉のつもりで〝赤〟」と言ってしまうことも考えられる、というのがこの説の主旨。

 ただし、たとえ紫と赤が逆に見えていたとしても、「〈むらさき〉を〝紫〟」、「〈あか〉を〝赤〟」のように言うのは変わらないはず。

 だから結果としてつじつまは合うので、問題が生じてこない、というのがその結論である。


   📍語の誤用とトラブル


 同じくつで、〈⦅悪いという確信があるのに知らぬふりで実行する悪質な⦆故意犯〉を、「⦅正義と確信して実行する勇敢な⦆確信犯」と言ってしまう、といった場合も出てくるだろう。

 しかしことばを、色にではなくくつにあてがう場合には、他者との突合が可能だ。

 それによって浮き彫りになってくる認識の食い違いが、衝突を起こす。

 語の誤用がトラブルに発展する機序とは、こういうものである。


 つまり意思つうとは、どうしても避けれないもの。

 これが、語によって言葉を表現している「」である。

 語をもって言葉を操る以上、悪意なくとも衝突は起き、それによってぼくらは心をえぐられ、またえぐる。

 〝そんなつもりではなかった〟という言い訳をしてみても、事故が起きた後ではもうその事故を、無かった事にはできない。

 極端な話として、「killキル」という英語は〈殺害する〉という物騒な意だが、場合によっては〈失脚させる〉という意味でも通用する。

 そのつもりで〝Weウィー willウィル killキル(みんなでアイツを打ち負かすぞ)〟と言ったのが、要人に対する殺害予告とされ、こうべんむなしく「」。

 そんな、取り返しのつかない無念な事例すらあるのだ。

 もっとも、この話には人種差別的な要素もあって、弾圧の口実として故意に曲解した可能性は否めない。


   📍語を遣う覚悟


 しかし何にしても、そういった危険性がつねにまとうことは、ぼくらがそのような原罪をそなえることは、あらかじめ了解されるべきである。

 具体的には、つまり伝達能力に限界があるのが問題なのだから、


  •  心外な言葉が投げ掛けられたと感じたら、その真意をきちんと確認すべし


という事だ。

 まあ了解したところで、殴り殴られればへこむものはへこむのだが、心の準備の有無でそのばんかい具合には、大きな差が出るだろう。

 ちなみに原罪をそなえるという事は、〝自分は悪くない〟という言い訳がへん的かつ絶対的に成立しない、ということを意味する。

 覚悟せよ、ぼくらはみんな悪者だ。


   📍不適切な語の設計


 もっとも、そうやって言葉と語の関連付けに失敗するも、その「姿すがた」にだまされて起きることが多い。

 今の「killキル」もそうだが、ほか例えば「かくしんはん」。

 これは〝どう裁くのがとうであるのか特に悩まされる〟との観点で産まれた、ほうそう界用語。

 正義と信じての行動なのに、罰せられるのは無念であろう、という事はもちろん。

 正義の味方が罰せられる姿を見た他者に、〝法律なんかクソ食らえではないか〟と、そう思わせてしまう事なども考えられる。

 そのように、問題を生じさせるような判決など正義ではあり得ないゆえ、「法手続きをじゅんしゅすることで逆にちつじょたんさせる」との問題を、提起しているのだ。

 また、法よりも自身の信念に比重を置くがための犯行ゆえに、法にもとづく取り締まりでは抑止が困難でもある。


 そんな苦悩めいた重たい語が、誤解のもとに通用するのは、「それが何に対するどんな確信か」についての説明を、語自体が一切しないから。

 それゆえに、解釈のブレを生じさせてしまうからだ。

 これがもし「ねんはん⛏」のような名称だったらば、少なくとも「単なる故意犯」を指して呼びつけるような誤用は、され得なかったのではなかろうか。


 つまりこの「確信犯」という語は、〝せっけいっていない〟と評価できる。

 大半の人は、知らない語を見たとき、とりあえず調


  • まず自身の持てる言葉に関連付けられた語を当てて解釈し、

  • それで解決しない次には文字どおりに解釈し、

  • それで解決しない次には自身の認識傾向により自動補完する。


という手順を取るもの。

 特に、最後のものはただの決め付けであり、ゆえにほぼ確実に失敗するから、そんな余地は当然作るべきではない。

 とはいえ最初のものの回避のために、すべての人について語と言葉の関連付けをあらかじめ規正しておく、などという話には無理がある。

 だから、新語作成の際には中央のものの勘案、すなわち「どおりのかいしゃくのかぎりでかいしょうじにくいこと」を最低限確保すべき。

 そのように重々承知しなければならないわけだ。


   📍トラブルの分別


 そんな事もあり、ほかのだれかへ〝あなたの言ったことは間違っている〟と指摘するには、それが


  • 「姿の次元での取り違え」なのか

  • 「言葉概念の次元での取り違え」なのか


を、まず分別できる必要が有る。

 さもなければ当然、的外れな追及に始終するからだ。

 そしてぼくらは、この無意味な行動を〝じゅうばこすみく〟と呼ぶわけである。


 ところが語とは、言葉と違って目に映り、耳に聴こえるものだから、むしろそちらにかたよって、余計な茶々を入れられる傾向が強い。

 だからそこにけんが有ったとき、意見の衝突よりも、語の誤解をまず疑ったほうが、決着が早い場合も多い。

 実際にも、〝この人たち同じこと言ってんのに何でぶつかってんの〟という論争がしばしばみられ、まあ結構いい見世mゲフンゲフン


   📍日本語の超越的複雑性


 なお、〈万国のをすべて吸収した万能言語〉とのコンセプトで「Esperantoエスペラント(ポーランド語で〈ぼういだもの〉の意)」という言語が創られている。

 策定の際にはおそらく、この「ちゅうしょうてきなにか」をがんってもうする事にはなった、とは思われる。

 が、残念ながら現時点でそれは不十分であり、特に日本語のにおいて、エスペラントで表現できないものがいくつか確認されている。

 まああの、「ナイフ」と「包丁」が区別できないとかね……。


 ……日本語はそれだけHENTAIえろいって事です(

 たぶん史上最悪の難解言語なんじゃないすかね、まあ議論には向いていませんよ。

 〝ほんうつくしい〟ともうけれど、それも〝基本部分があり得ないほどグダグダだからこそ、ごくまれに目がくらむほど光るという奇跡が起こる〟ということ。

 言語としては、非常に「きたい」ものですよ。

 むしろ、さすがは人工言語と言うべきか、エスペラントのほうがよっぽどエレガントです。


   📍言葉の意味と歴史


 ところで〝しゃけいけんまなび、けんじゃれきまなぶ〟とうもの。

 ここでの{歴史}は、原語においては「しゃけいけんだん」。

 要は、「愚者は人の経験をないがしろにするけど、〝しゃりんさいはつめい〟は効率悪いよ」という話である。

 ただ、言葉とは人の思いや経験を表現するもので、また人の経験の積み重ねが歴史を構成するからこそ、ここでは{経験談}が「れき」とい換えられている。

 だから、言葉やそれにずいする語を追うと、ともなって歴史までもがいもづる式に掘り起されてくるもの。

 たとえば「おうにんらん」は出来事であるが、同時に言葉でもあり、〈とく争いなどという詰まらないものによってでも、日本全土を戦国時代へと突入させうる〉との教訓を含む。

 つまり「」ともえるものであり、いま書いているこの文章の理解を深めることによっても、それをかいに見るだろうと予言しておく。


 なお、〈〝ステップ、ターン、オーニンノラン!〟という掛け声を流行はやらせようとしていた過去〉の事を「くろれき」とう(

 我がはんりょとなる者はさらにおぞましきものを見るだろう(

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