　マルクス達三人は、半（なか）ば呆（ほう）けた表情で宴会場へと戻った。

「通行税の三分の二を暁（ぎょう）が持つだと…。絹が欲しくて堪（たま）らないのはローマの方なのに…。何故（なぜ）暁は、このような気前の良い条件を出すのだ？折半（せっぱん）であっても、我らにとっては上々なのに…」

　そう言って考え込むマルクスに、ミアケスが言った。

「しかしこれで、皇帝陛下への報告がし易くなったではありませんか。胸を張ってローマに戻れます。」

　そう言われたマルクスは、視線を宙に彷徨（さまよ）わせた。

「しかし、あの華真と言う男。我らすら思い付かぬ程に、皇帝陛下の考えを見透（みとお）している様子に思えるが…。ええい、今日はもう考えるのは止めた。ミアケス、先程出された火酒（ひざけ）というのを貰って来い。今宵（こよい）はとことんこの宴（うたげ）を楽しみ尽してやる。」

　団長のマルクスが、手元に運ばれた火酒の杯を思い切り煽（あお）った事で、それまで代表達の様子を窺（うかが）っていた使節団の者達が一気に盛り上がった。

　しかも酒が入った事で、使節団皆の興奮は更に高まっていった。

「この茶色く煮込まれたものは何ですか？弾力があるのに口の中ではさくりと解（ほぐ）れる。しかも何とも言えない濃厚な風味だ。このようなもの、今まで食べた事がない。」

　使節団の一人から尋ねられた暁の文官が、傍（かたわら）に通訳を置いて答えた。

「鮑（あわび）の煮込です。一切れがそれほどに大きなものは、私も初めて見ました。高級料理なので、暁に於いても滅多に口には出来ません。」

　使節団の全員が遠慮を捨てて、宴会場のあちこちで同席していた暁の文官や武官へと話しかけ始めた。

　使節団と暁の出席者達の間に入った通訳司達は、俄（にわか）に忙しくなり必死の形相で互いの言葉の交換に取り組んだ。

　その様子をはらはらとした眼で見回していたのが、兵団長のシドニウスだった。

　シドニウスは、元々から下戸（げこ）だった。

　それ故（ゆえ）に、最初の間は多少落ち着いていた使節団の空気が、マルクスが酒を煽（あお）った事で一気に盛り上がった様子に不安を覚えていた。

　シドニウスは、副官のラサウスを呼んだ。

「ラサウス。皆の所を回って、酒に酔って羽目（はめ）を外（はず）さぬように注意して来い。」

　酒が回り始めていたラサウスは、半ばとろんとした目付きでシドニウスを見た。

　ラサウスの方はシドニウスとは真逆で、酒には眼がない。

　両手に火酒と黄酒の杯を持ち、それを交互に飲み比べて悦に浸っている。

「どうしてですか？誰もが良い雰囲気で交流を行っているではないですか。適度に酒も回って互いに楽しそうですし、何の問題もないでしょう。」

　ラサウスの呑気な声に、シドニウスの怒りが弾けた。

「馬鹿者。こういう時が一番危ないのだ。ローマの者達が、招かれた宴の席で酒に酔って醜態（しゅうたい）を晒（さら）す事などあってはならぬ。文句を言わずにさっさと行って来い。」

　そう言ってラサウスを追いやったシドニウスが再び周囲を見回した時、一人の若いローマ兵士のある行為が眼に映った。

　その若い兵士は、一枚の絵皿を手にしながら周囲を見回すと、持った皿をそっと懐（ふところ）へと忍ばせた。

　それを見たシドニウスは、直ぐにその若い兵士の側（そば）に駆け寄った。

「その懐のものを出せ。」

　シドニウスに睨（にら）まれた若い兵士は、その場で硬直した。

　そして額から汗を滲ませ、おどおどとした眼でシドニウスを見上げた。

「俺が言った事が、聞こえなかったのか。お前が懐（ふところ）に忍ばせた物を、直ぐに此処（ここ）に出せと言っているのだ。」

　若い兵士が懐から差し出した皿を手にしたシドニウスは、もう一度その兵士を睨（にら）み付けた。

「お前、自分が何を仕出かしたか分かっているのか？　お前のやった事は窃盗（せっとう）だぞ。しかも大切な宴（うたげ）の席で、このような真似をするなど…」

　シドニウスの怒鳴り声に、周囲にいた者達が静まり返った。

「お前は確かニコスと言う名だったな。このような愚行、到底許されるものではないぞ。」

　若い兵士は、シドニウスの前に跪（ひざまづ）くと、額を床に擦（す）り付けた。

「申し訳御座いません。魔が刺したのです。ローマに病弱の妹がいます。その妹は寝たきりの身なのですが、殊更（ことさら）に絵に執着していまして…。この絵皿を見た時、これを妹に見せてやりたいという思いが浮かび、どうしてもそれに抗（あらが）えませんでした。」

　ニコスという若い兵士の言葉に、シドニウスは眉をぴくつかせた。

「肉親への情がどれほど深くとも、それが窃盗を許容する理由にはならぬ。お前には、この場から直ぐに宿営所に戻っての監禁を申し渡す。そしてローマに戻った後には相応の罰を覚悟せよ。」

　騒ぎを聞き付けたマルクス達も、その場に集まって来た。

　大勢に取り囲まれた若い兵士は、床に頭を擦り付けたまま肩を震わせていた。

　シドニウスから事情を聞いたクイントスが溜息を付いた。

「愚かな事をしたな。絵皿の一枚くらい、と思ったのかも知れぬが、その一枚はこの壮大な芸術を構成する大切な一部なのだ。それが失われてしまえば、絵全体の価値も失われてしまう。その事に気づかなかったのか…。」

　ローマ兵団の兵数人に引き立てられたニコスは、悄然（しょうぜん）とした姿で会場の外へと連れ出されて行った。

　その様子を見ていた華真が、ふと何か思いついたように周囲を見回した。

　そして、宴会場の一番隅の卓に何恭と耀春の姿を認めると、そちらへと足を進めた。

　宴会は、既に終盤に差し掛かっていた。

　宴会場の扉が開けられ、最後の料理が運び込まれて来た。

　それを見た使節団の皆が、一斉に料理が運ばれた中央の食卓に向かった。

　中央の食卓には大きな金属の壺が幾つも並べられ、更にその横にはもうもうと湯気が上がる炒飯（チャーハン）の大皿が並べられた。

　使節団の面々は、直ぐに食卓の内側に立つ料理人達の前に列を作った。

「これは、美味（うま）い。この細長い穀物に肉の脂（あぶら）の旨味が絡（から）んで、匙（さじ）が止まらない。この穀物は何なのです？」

　使節団の武官の一人に問われた料理人が、通訳司に顔を向けた。

　そして、直ぐに説明を始めた。

「米というものです。こちらの地方では主食となっている穀物です。料理頭（りょうりがしら）が、猪（いのしし）の腹に香辛料と米を一緒に詰め込んで、じっくりと炙（あぶ）ったものです。猪の肉も召し上がりますか？」

「勿論です。ところで、そちらの壺にはどんな料理が入っているのですか？」

　そう問われた料理人は、にんまりと笑うと壺の蓋を取り、傍（そば）に重ねてあった椀（わん）に壺の中身を柄杓（ひしゃく）で注いでいった。

　椀を差し出されたローマの武官は、その中身を見ると眼を瞬（またた）いた。

「何だ、この真っ赤な汁は？こんな料理は初めて見るが…。」

　そう言いながら手にした椀を凝視する武官の横で、別の武官が声を挙げた。

「辛い…しかし途轍もなく美味（うま）い。汁の中の白い柔らかなものが、肉と絡んで喉（のど）を滑り落ちる…。おい、お前も早く食ってみろ。凄いぞ、この料理は。」

　そののち暫（しばら）くの間、宴会場からは一切の会話が途絶え、匙（さじ）を啜（すす）り口からはぁはぁと息を吐く音だけが響いた。

「これは、病みつきになる味だな。」

　そう言いながらおかわりを頼んだ武官が、食卓に備えてある小さな壺に気づいた。

「これは何ですか？」

　そう言いながら武官が蓋をあけると、中には真っ赤な糊状（のりじょう）の液体が入っていた。

「追加の辛味香辛料です。もっと辛いのがお好みなら、匙で少しだけ椀に加えて下さい。ちょっとだけですよ。途轍もなく辛いですから…」

　空になった椀の淵を舐めながら、ミアケスがマルクスに尋ねた。

「これは、何という料理なんですかね？この旨味のある濃厚な辛味といい、中に入っている不思議な白い食材と言い…。マルクス殿は、皇帝陛下と共に各地を巡行された事がお有りでしたね。こんな料理を口にされた事はあったのですか？」

　そう聞かれたマルクスは、直ぐに首を横に振った。

「いや…。私もこのような料理は初めてだ。しかしこの辛味の元になっているものには心当たりがある。赤い植物だ。王宮の料理長が、以前に手に入れたという話を思い出した。エジプトから更に遠方の地で採れるものだと言っていた。しかし、料理長はこのようなもの料理には使いようがないと言って、匙を投げていたのだが…。工夫次第では、このような美味に化けるのか…。」

　使節団の皆が歓喜しながら最後の料理を堪能（たんのう）するのを見渡して、マルクスが華真に向かって礼を述べた。

「素晴らしい饗宴（きょうえん）でした。出される料理のどれもが初めて目にするものでしたが、いずれも途轍もなく美味でした。皆、感激しております。本当に感謝申し上げます。」

　すると、華真はにこやかに笑いながらマルクスに言葉を返した。

「皆様がお気に召して頂いたのならば何よりです。ところでこの後、先程打ち合わせをした会議室にお越し願えませんか？お渡ししたい物があるのです。」