義妹候補は異世界人

惣山沙樹

01 プロローグ

 はあっ、あたし、疲れているんだな。

 ワンルームマンションの三階、誰もいない夜の廊下で、あたしは大きなため息をついた。先ほどあたしは、ドアノブにIC定期を押し当てていた。間違いに気づくまでには、五秒くらいかかった。以前、改札口で家の鍵を取り出したことがあったが、今回はその逆である。

 まあいい、今日は金曜日だ。しかも明日から三連休だ。冷蔵庫の中のお楽しみを思いながら、ドアを開けた。


「ただいまー」


 当然誰の返事もないのだが、そう言うことが癖になっていた。玄関に転がったままの空き缶を見て、今朝出るときに蹴散らかしたままなのだと気付いた。一人暮らしの侘びしさが身にしみるのは、こういう時だ。出た時と同じ風景。この部屋に、あたし以外の人間が暮らしていない証拠。

 まあ、二年前までは、たまに誰かさんが待っていてくれたのだけど……思い起こすと惨めなだけなので、やめておく。

 暖房を入れ、惣菜屋で買ってきたチキン南蛮をレンジで温めた。八時からの半額セールで手に入れた一品だ。これがセールの時まで残っていることは少ない。今日はついていた。それを皿に移し替えることもせず、パックのままテーブルに置いた。きんぴらごぼうも、もちろんそのままだ。

 そして冷蔵庫を開け、しっかり準備しておいたプレミアムモルツを取り出した。これがあたしのお楽しみ。

 浅倉礼子あさくられいこ、二十八歳、独身。

 花の金曜日のお供は、まばゆい光を放つこの缶とお惣菜だけである。


「ぷはぁ……生き返るわぁ……」


 喉の奥にごきゅっと広がる爽快感。この一口のために生きている、というのは言い過ぎだと思うが、あまり否定もできない。このところ仕事漬けで、買い物や旅行には全く行けていないのだ。

 同じ係の後輩が産休に入り、全ての書類があたしの机にやってきた。代替人員なんて、このご時世だ、入れてくれるわけがない。残業してなんとかその日のノルマをこなし、帰ったら寝る。土日は溜まっている家事を終わらせるだけで過ぎていく。なので、今回の三連休も、全く予定を入れていなかった。

 テレビをつけ、チキン南蛮を口に放り込んでいると、電話が鳴った。せっかくお楽しみを始めたところなのに、と思い苛ついたが、画面には母の名が表示されていた。取らないわけにはいかない。


「お母さん? どうしたの?」

亮太りょうたがそっちに来てない!?」


 開口一番、母は亮太の——あたしの弟の名を挙げる。いきなりどうしたというのだろう。


「はあ? 亮太が? 来てないけど」

「お父さん! 礼子の所にもいないって!」


 受話器の向こうでは、バタバタとけたたましい物音がしていた。あたしはテレビの電源を消した。


「ねえ、亮太がどうしたの?」

「あの子、帰ってこないのよ! 学校に連絡したら、今日は来てないって……!」


 他人が焦っていると、周囲の人間はかえって冷静になれるものだ。あたしはゆっくりと、母に語りかけた。


「お母さん。まだ、夜の九時よ? そんなに遅い時間じゃないわ。それに、亮太はもう高校生じゃない。どうせ学校サボって、どこかで遊び歩いてるのよ」

「スマホにかけても通じないの!」


 奥で父の声が聞こえた。あたしに代われと何度も言っているようだが、母は取り合わない。


「きっと何か、事件に巻き込まれているんだわ!」

「お母さん、落ち着いて!」

「……礼子」


 ようやくスマホが父に渡ったらしい。


「亮太がまだ帰ってないんだが、母さんが警察に届けると言い出してな。まさか、礼子の所には居ないだろうと思ったんだが、念のためだ」

「そっか。警察はまだなのね」


 あたしは心底ホッとした。未成年と連絡が取れないとはいえ、今の段階で警察に行っても、軽くあしらわれるのがオチだ。そりゃあ、姉としては心配だが、母はいつも弟に甘すぎるのだ。


「お願いだからお母さん止めてよ? こんなことで警察だなんて、恥ずかしい」

「まあ、父さんも大丈夫だとは思う。もう少し待ってみるよ。礼子からも亮太に連絡してみてくれ」

「はぁい」


 そう言って電話を切った。思えば、両親と会話したのは、先月お米を送ってもらった時以来だ。亮太とは、一年近く顔を合わせていない。ここから実家までは、電車で三十分しかかからないのだが、特に用事もないので帰ることはなかった。


(あいつが家出、ねえ……)


 久しぶりに、年の離れた弟のことを思い起こした。亮太はあたしと九歳違い、現在十七歳の高校生だ。頭は馬鹿だが、学校をサボることはないし、放課後寄り道をすることもない。帰るとすぐにゲームに熱中。夕飯はしっかり食べて、またゲームして寝る。そんな生活を送っているはずだ。あたしの知る限りでは、夜遊びを楽しむタイプではない。


(まあ、そんな年頃なのかもね)


 あたしはテレビをつけた。天気予報では、この三連休はよく晴れるという。雪の心配もなく、穏やかな冬の日差しが降り注ぎます。お出かけやお洗濯には絶好の日和でしょう。

 惣菜のパックとプレミアムモルツの缶を片付け、シャワーを浴びる前に、ラインだけ打っておくことにする。


「お母さんが心配してる。早く帰れ」


 絵文字を使おうかと思ったが、やめた。我ながら素っ気なさすぎの文面だが、気を使ってやる必要はない。

 仲は悪くない方だ、と思う。あたしが学生のときは、幼くて可愛い弟が自慢だったし、亮太もあたしを慕ってくれていた。年が離れているせいか、しょうもないケンカはあまりしなかった。ゲームだって、あたしが教えた。


(彼女ができた? まさかね)


 そうだとしても、学校をサボって家に帰らない理由にはならない。とんでもない不良と付き合い出したとしても、スマホの電源くらいつけておくはずだ。シャワーを浴びながら、様々な可能性を考えたが、しっくりこなかった。

 肩まで伸びて鬱陶しくなってきた髪を拭きながら、ラインの返信がないか確認した。亮太からはもちろん、誰のラインも来ていない。

 一番最近のラインは、同級生の結婚式の二次会で使う、メッセージつきの写真をくれという依頼だ。大きな紙にメッセージを書き、それを持っている自分の写真を用意しろなんて、面倒にもほどがある。その同級生とは別段親しいわけではなかったので、すっかり無視してしまっていた。


「面倒くさい……」


 腹が立ってきたので、そのラインを消去した。今のあたしに、他人の幸せを祝う余裕は皆無である。

 スウェットに着替え、あたしはもう一本プレミアムモルツを取り出した。一人暮らしの晩酌は、これからが本番だ。

 スルメイカの袋を開け、録画しておいたホラー映画を再生した。怨霊だか悪魔だかが宿った車が、人々を襲うという内容で、八十年代のものだ。見終わる頃には日付が変わっているだろうが、明日は昼まで寝るつもりなので問題ない。


「いやいや、やりすぎでしょ……」


 缶が空になり、映画は中盤になった。男たちがはしゃぎながら、その車を壊そうとしていた。次はこいつらが死ぬんだな、とか、いくら殺人マシーンでもああやって一方的に壊されるのは可哀想だな、とか思っていたときだった。


「姉ちゃん! 姉ちゃんっ!」


 ガンガンとドアを叩く音がした。多少酔いの回った頭で、それにのろのろと反応した。あたしを「姉ちゃん」と呼ぶ人間は、この世界に一人しかいない。


「……亮太?」


 身体が重い。立ち上がりたくないのだが、ドアを叩き続けられるとご近所に迷惑なので、のっそりと玄関に向かった。チェーンをつないだままドアを開けると、そこには本当に弟の姿があった。


「姉ちゃん、会いたかった!」


 亮太は息を弾ませ、満面の笑顔でそう言った。記憶の中の弟とは、少し雰囲気が違う。こんなに髪を伸ばしていただろうか。それよりも、なぜあたしの部屋に来たんだ。ともかくチェーンを外し、玲太を招き入れた。


「どうしたのよ、一体」


 様々な文句が喉に押し寄せているが、亮太がやけに急いだ様子なので我慢した。


「姉ちゃんっ!」

「……はあ!?」


 亮太は部屋に飛び込むと同時に、あたしに抱きついてきた。仲は悪くない姉弟ではあるが……こんなスキンシップをするほど仲は良くない。引き剥がそうとしたが、余計強く抱きしめてきた。


(何、何なのよ!)


 亮太は父に似たのか、日本人にしては長身で、無駄に力も強い。じたばたともがきながら、亮太の肩越しに知らない人間が立っていることに気づき、息が止まった。


「姉ちゃん、お邪魔します!」


 元気よく右手を挙げ、高らかに宣言する金髪の少女。つけっぱなしにしていたテレビから、車のモーター音と男たちの叫び声が聞こえてきた。亮太はあたしにしがみついたまま。ほろ酔い気分はすっかりどこかへ行ってしまった。

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