月の迷い家(まよいが)

にのい・しち

遭難


 2024年までに完遂を目指した、米国主導のアルテミス計画は無事に成し遂げられ、現在フェーズ2が決行中。


 私は唯一日本人で月探索隊に選ばれたが、今は後悔している。

 資源調査の為、静かなる海と呼ばれる月の裏側を、探索用のバギーで走行中、岩石にぶつかり横転。

 バギーは故障し無線機まで壊れ、救援は呼べない。

 月基地まで徒歩、1時間を越える帰路た。

 6分の1の重力で、歩行は困難。


 腕に取り付けられた計器で、バイタルサインを確認。

 宇宙服の酸素は1時間も持たない。

 生還する為にはひたすら、陽の当らない灰色の大地を歩まねばならないのだ。


 地を足で踏みしめている感覚はあるものの、月の重力下では足裏の反発が少なく、深い海で半身をもがいているようだ。

 さらに闇で足元は見えず、底無しの沼を歩く恐怖が、精神を疲弊させた。


 うつむきながら歩く私の心は、死の可能性に満ちていた。


 酸素が切れ呼吸ができなくなり、宇宙服の上から激しく胸と首をかきむしる。

 口からは泡を吹き、充血した目は飛び出しそうな程、ひんむく。

 意識は遠退き景色が霞みながら、目の内に届く光がゆっくりと失われる。


 待ち受けるのは苦しみ抜いて、醜いタンパク質の塊へと変貌する未来だ。

 

 なんと恐ろしい死だ。


 不意に闇が濃くなり影奉仕を踏む。

 見上げた光景に私は唖然とした。


 なぜ月に日本家屋が存在している?


 藁の傘をかぶせた、かやぶき屋根。

 見るからにカビ臭さが伝わる木造の壁。

 まごうことなき日本伝来の家だ。


 まともな精神を持つ人間なら、月に突如現れた得たいの知れない家に踏みいるなど、まずしない。


 しかし腕の計器を見ると、基地の座標を示すレーダーはこの家屋の先にある。

 家の全体を見てから思慮する。


 横ばいに広がる家は目測で100メートルか?

 なら、入り口を中心に左右どちらかへ回り込めば、50メートル歩き、裏手へ回って帰路修正も兼ね、更に50メートルは歩く。

 概ね5分はかかる見積もりだ。


 1時間プラス5分の道のり。

 その5分で私の命運は決まる。

 基地の目前で酸素が切れ、悲惨な死が訪れるのだ。

 

 近道はただ一つ。

 

 私は敷居をまたいだ。


 日本の伝承に「迷い家まよいが」という、民族学でも研究対象とされる迷信がある。

 まさか月の裏側で、その迷い家に出会うなど、考えもしなかった。


 伝承では迷い家は旅人に富をもたらすというが、果たして……。


 当然だが灯りなど一切ない暗闇が続く。

 ライトを照らせば木造の壁や階段はあるものの、光の外は暗闇で視界が閉ざされる。

 この闇の先に抜け道はあるのか、確証はない。

 再び先行きの見えない恐怖が私を蝕む。


 障子の扉を横切ろうとした時、視界の隅に棒立ちした物が通過した。

 足を止め障子をくまなく観察。

 

 向こう側に何かがいた?

 躊躇したものの、確認せねば胸の内が晴れない。

 私は障子の扉を開けて中を確認。


 暗い和室があっただけだ。


 気を緩めると、宇宙服からでも背後を通過する気配を感じた。

 ひるがえし辺りを見回すと、回廊の先に人影が見えた。

 人影は私に気づく様子もなく、照らされた光の空間から歩き去った。


 まさか、知的生命体がこの月に?

 歩みを速め人影を追った。


 私はアポロ計画以降の偉業を成したに違いない。

 しかし、追っても追っても人影は廊下の角を曲がり、視界から消え去ってしまう。

 まるで鬼ごっこだ。


 苛立ちで我を見失った瞬間、廊下のへりにつまずき転ぶ。


 すると、目下に大きな井戸が現れ、叫ぶ間もなく、さらなる闇が続く井戸の底へ落下してしまった。




 何が起きた?


 空は漆黒、足元は砕いた石灰せっかいを踏みしめたような、砂と岩。

 地平はまるでモノクロ映画に飛び込んだように、黒と白の世界が広がっていた。

 家屋を抜けたのか?

 だが、地平には基地らしき物はない。


 慌てて腕に取り付けられた計器を確認する。


 酸素の残量は残り30秒。


 バカな。

 私は生死のかかった1時間を、ただ茫然と過ごしていたことになる。 


 時間を無駄にしたことへの後悔と確定した死。

 脳が灰色の石に変わって行くようだ。

 


 そこへ、眼前に人影が現れた。 

 影は霞かかったように輪郭だけを残して、灰色の大地でたたずんでいる。 

 人影は小刻みに肩を上下させ、せせら笑っているように見えた。


 何をした? 

 お前は私に何をしたんだ?

 

 酸素は後、10秒で切れる。

 計器から再び眼前を向くと、人影は消えた。

 

 5、4、3、2、1――――。



 月の満ち欠けは、人の性格や体調を左右するという研究結果がある。

 約60%を水分で満たす人体に、月の引力が影響を及ぼす仮説だ。

 月の力が人の運命を左右する逸話は、古くからあるが、私は月という存在に、心と生命を弄ばれたのかもしれない。


 ならば、人間が恐怖心から互いを信じられず、残虐な戦争や犯罪、テロを起こすのは月の影響にあるのではないか?

 それを月に滞在する何かが、引力を用いて操作をおこなっていたら……。


 私はその闇を垣間見てしまい、この静かな世界で存在を消されたのか?


 我々、人類の自我も生き方も、本当に自分だけの物なのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の迷い家(まよいが) にのい・しち @ninoi7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説

輪廻のストーカー

★1 ホラー 完結済 5話