学級委員

あじさし

学級委員

 今日はご機嫌である。今朝家の前の公園でツチハンミョウを捕まえたから。私には放課後、それの標本作りという楽しみがあったのである。つやつやとして青く光る鉄のような甲、円らな眼、三つ編みのような触角に、少量でありながらも本物の毒を備えた小さくてすばしっこい生き物のことを考えると心が躍った。


「おっはよー!諸君!」

 私はまだ生徒の少ない教室で友人に声を掛けた。


「おはよー」

 気怠そうに最上さんが答える。


「おっはー。まつりかは今日もテンション高いな」

 新庄さんは椅子の背もたれを抱えるようにして座り、最上さんに向かい合っていた。


「へへっ、分かっちゃうかぁ」

 私は眼鏡のつるを指で上げた。


「話したくってしょうがないって顔してんな」

 何かの前触れをすでに感じ取っている新庄さんが言った。


「ちょっ、また虫見せるのやめてよね」

 最上さんがぱっと手で身体をガードする姿勢を取る。虫苦手な子って中学上がってから急に増えた気がするなあ。


 私はスマホの画面を開くと二人に今朝のお宝を見せた。

「わっ、ほんとやめてってば」最上さんが目を手のひらで隠し、新庄さんがのけぞって顔をしかめた。


「ふうん。ケッコーきれいじゃん、色合いが」

 最初にこわごわ目を開いたのは新庄さんだった。

「でしょでしょ」

 彼女は意外にもスマホをのぞき込んでいた。

「ほらなおみ、いうほどグロくないって」

「えぇ」

 最上さんはこわごわと目を開けた。

「あ、ほんと。きれい」

「でしょ?今朝公園で取ったんだ」

「メタリックだね」

「ちょっと毒々しいかも」

「うん、毒もある。昔、忍者が暗殺にも使ったらしいよ」

 二人はほぼ同時に悲鳴を上げた。


 朝学活のちょっと前に、やっと私の横隣りの子がやって来た。


「おはよ、鶴岡さん」

「おはよう」

 彼女はがやがやしている教室の中、かろうじて聞き取れる声であいさつをした。


「ぎりぎり間に合ったじゃん」

 鶴岡さんは教室に入るのが遅くてときどき朝学活に間に合わないこともあった。彼女はクラスで話す人があんまりいなさそうだった。けれど、きっと面白い子だと思う。私はモーションをかけてみた。


「へいへいへーい。彼女ぉ、今日は何色のパンツ穿いてんのぉ?」


 最上さんや新庄さんにはよくこんな絡み方する。なんなら新庄さんのスカートならときどきめくっちゃうまでするもんね。まあ、クラスの米沢くんにも言ってみたらわりとマジ気味にキレられたけど……。

 鶴岡さんは一瞬、何を言ってるのか分からないという顔をして前を向くと音を立てずに椅子に腰かけた。


「うん?」


 うーん。なんか良く聞こえなかったけど、今。頭の中で口の動きをもっかい再生してみた。

 うざっ、て言われたような?


 チャイムが鳴る。


 今朝のターゲットへの作戦は失敗であったらしい。そうこうするうちに先生が教室に入ってくる。


「ほらぁ、席戻りなっ。学活やるぞ」

 あれ?担任の片山先生じゃなくて今日は副担の重森先生だ。


 彼女は私たちの学年の理科の先生で、いつも黒いタンクトップに細いデニムを穿いて上から白衣を纏っている。たぶん、白衣はチョークの粉が服にかかるのがいやだから着てるんだと思う。少しウェーブのかかった長い髪を撫でつけると教壇の上に立った。


「委員長、号令」

「はい」

 私は元気よく答えた。私はこのクラスの学級委員である。


「きりーっつ。気をつけぇ、礼っ」

 38脚の椅子がリノリウムの床をずるずる擦る音が止むと、途端に水を打ったように静まりかえった。


 重森先生の話によると、どうやら片山先生は体調不良で来られなかったんだって。まあ、魚介類も食あたりには気を付けないとね。


 ふと隣の鶴岡さんを見ると、足を揃えて椅子の背もたれに背を付けない良い姿勢のまま肩を開いて身体ごと重森先生の方を見据える。朝学活の直前まで机にひじを置いてうなだれていたのに。片山先生が見てたらまた死にそうなため息つくぞ。


「というわけで、今日は学活と5時間目の授業ね、あんたたちと顔合わせるのは。単元テスト、せいぜい悪あがきしなさい」

 重森先生は少しニヒルな笑みを浮かべた。


 クラス中から悲鳴が上がっているのと対照的に、鶴岡さんは黙って拳を握っている。横目に見ただけだけど、目がとてもキラキラしている気がする。だいたい教室ではうつむきがちなのに。


 ちなみに、理科の点数はだいたい私か鶴岡さんのどちらかがトップになる。

 前、私の理科のテストがトップだったときがあった。横から視線と不思議な雰囲気を感じたので、ふり向いたら鶴岡さんと目が合った。私はドヤ顔をしてテストを見せたんだけど、彼女は私と2点差だった。後から思いかえして、そうなのかぁと思ったんだけど、あの燃える氷みたいな瞳を「目が据わってる」と言うらしい。席が二つ後ろの最上さんが言ってた。それ以来、彼女と私は特に理科のテストで点数を争うライバルとなったのである。


 まあ、向こうが一方的に点数を見せてくるからこちらもおずおずと見せなきゃいけない感じになるだけだけどね。

 

 結果から言うと、今回の理科の単元テストは鶴岡さんの点数が上でクラストップだった。正直、物理分野の計算問題って身に馴染まないんだよね。


「さすが。すごいじゃん鶴岡さん」

 私は勝者を称えた。

「どうも」

 彼女は多くを語らなかったけれど、眼の中で光が瞬いていた。きっと本当はとてもうれしいんだろうね。


 重森先生がテスト問題の主な解説を終え、チャイムが鳴ると鶴岡さんは先生の方に駆けてゆく。生徒たちの声で教室はがやがやしていた。


「酒田先生、今回は負けちゃったか」

 鶴岡さんとの点取り合戦に最近興味をそそられている新庄さんがにやにや笑いながら肩を叩く。

「しょうがないよ。だって物理分野とは相性悪いしそれに……」

 鶴岡さんと重森先生が何を話しているか聞こえないけれど、どうやらテストの話ではないような……。

「鶴岡さんさ。先生から本借りてるみたいよ」

「参考書?」

「うーん、にしては随分古そうな本だったけど。こないだ職員室に用事があって行ったときに重森先生からなんかその本受け取ってるところ見たんだよね」

「ほう」

「なんか、あの二人からただならない雰囲気を感じない?」

 最上さんが新庄さんの席の横にやって来て真顔で言った。


「なおみ」

 新庄さんが最上さんの方を向く。

「重森先生って誰に対してもあんなサバサバした感じだけどさあ。やっぱり成績の良い生徒はかわいいんじゃない?自分の教え方に確信が持てるじゃん」

「そういうもん?鶴岡さんが重森先生に懐いてるだけじゃない?」

「懐いてるって……」

 私は珍しくツッコミをした。

「見てみ、あの先生とあの娘の表情」


 鶴岡さんはときどき手を組んだり両手を軽く広げたりと、ふだんはまず目にすることのない大きなジェスチャーでその感情を解き放っているように見える。一方、先生はそれを見てか一瞬目を細めて楽しそうに笑った。先生はよく笑うけれど、たいていは目だけは開いている。何かを見落とさないため、そうじゃなければたんに癖でやっているようなその仕草は、私にもとっても特徴に映っていた。


「でもさ、先生とそういうのって、なくない?てか女同士じゃん」

 ぼそっと新庄さんがつぶやいた。

「先生と生徒だからかもよ。生徒からすると自分が目指すべき憧れの対象で、先生からすると懐かしい自分の過去を思い起こさせるかわいい存在なんだよ」

「よく分からないなあ」

 と私は首を傾げた。

「まーたなおみの色ボケが始まったよ。よく飽きないね」

「色ボケって言い方!」ずいっと新庄さんの机に最上さんが乗り出した。


 私には恋というものがよく分からなかった。でも面白いよ、鶴岡さんって。


 それから一週間もたたない日のことだったかなあ。

 私は木の根元を掘っていた。ヒグラシの幼虫を捕るためだった。ほんとならグラウンドで一晩中待ち伏せてヒグラシの羽化を見たかったのに。セ〇ムが作動するからと教頭先生にやんわり断られたので、仕方なく持って帰ることにしたのである。二、三匹ならいいよって言われたし。


 やっとヒグラシが出てくるポイント見つけたのになあ。まあ、しょうがないか。

 二匹取ると虫籠に入れた。


 あ、鶴岡さん。

 私は校門に立っている彼女と、彼女の目の前にある一台の車を見とめた。誰かと話してる?あっ、車行っちゃった。


 鶴岡さんは車が去ってからもずっと校門の前で立ち尽くしていた。だらんと両腕が下ろされ、ぶらぶらさせている、というより電灯のひもみたいに揺れるに任せてる感じ。彼女は月でも眺めるように空を見上げている。

 今日は新月で月なんて見えないはず。


 あれ、こっちに気付いたぞ。ちょい、ちょいちょい、ちょっとこっち向かってくるんですけど。


 彼女の走りはほとんど頭がぶれず、振る腕はさっきと打って変わってとても速い。まるで風のように私の方に向かってきている。彼女は足が速くて陸上部員だったことを思い出した。とっさに虫籠を持ってその場を離れようとしたけれど、逃げてもすぐに追いつかれるであろう。

 私は何かを追うのは得意であるが、追いかけられるのは苦手である。


 彼女は私の前に来ると、二、三回足踏みをするようにしてその場で止まった。


「あ、あのぉ。こんばんは」

 私は、軽く息を整える彼女におずおずと言った。

「見たでしょ」

 彼女は膝の上に両手で支えて突っ伏していた上半身を起こし、左手の甲で目の下あたりを拭う仕草をする。

「な、何をだい?彼女ぉ」

「見たでしょ」

「な、私はセミを取ってただけだよぉ。ほんとほんと」

「や、見せないでよ」

「あ、ぁあごめんね」


 とっさに虫籠を後ろの方に置いた。

 てか、そもそも彼女から話しかけてくること自体珍しかった。

「てかさ、校門前にいたら通る人みんなの目に付くと思うよ」


 彼女はとても不機嫌そうに横を向いている。

「そうね。いや、そうじゃなくてその」

「何?どゆこと?」

「視線が合っちゃったからつい」

 どうも要領を得ない。


 点き始めたばかりの街灯に照らされている彼女の目が少しだけ赤くなっていることに私は気付いた。それと同時に、彼女はとても怒っている表情をしているけれど、実は泣きたくないからかろうじて感情を抑えていることを悟った。

 私はなるべく落ち着いた声で尋ねた。


「どうした?誰かに虐められた?」

「ううん。ただ、先生を見送っただけ」

「重森先生?」

「どうして分かったの?うん、そうだよ」

 どうしてってどう考えたってそうじゃん。他にそんなことする先生いないじゃん。それは分かるよ。

「情けない、自分が。知ってんだから、先生は、みんなも慕ってて。それで、車で送りに来てもらえる、男の人、も、いて」

 鶴岡さんは釘で木に文字を刻むように言葉を紡いだ。


「車?それ、先生のおと

「大丈夫。だいじょぶ、分かってるから」

 彼女は手で私の言葉を制した。

「私、先生が教科担になってから理科、面白くなってさ。気象の本、雪の結晶の本、貸してもらったんだ。そんな、ことで舞い上がっちゃったのかも。だって、先生と話してると、時間あっと言う間だし、帰っても、家事してても、寝てても、先生のこと、頭の中に、どんどん、流れちゃう」


 なんだか、とんでもないことを聞かされていることだけは分かった。

 話す言葉が止まったり流れたりしていた。けれど、それ以上にこんなになっても決して泣くことなく、とてつもなく不機嫌な表情を相変わらず続けることがとても印象に残った。ふと、前に廊下で女子の先輩と何か言い争いをしていた光景を思い出した。


「とても強いね、鶴岡さん」

「へっ?」

「あいや、口に出ちゃった。その、私よく分かんないけど、それだけ誰かを思うってそうとうエネルギーが必要だよね」

 彼女は表情が少しだけ柔らかくなって、口の端をくしゃっと上げて微笑んだ。

「エネルギー。そうかも、たしかにすごく疲れた。こうしたら先生うれしいかなとか、こういうことイヤだったかなとか、考えてるうちに結局自分のことを見直すことばかりで……」


 そして、ふっと息を吐いた。

「なんでこんなこと話しちゃったかな。ごめんね、こんな三文芝居にもならないような打ち明け話なんかしちゃって。キモいよねいきなり」

「そんなことない。あのね、私、さっきこれを取ってたんだけどね」

 そうっと後ろに隠していた虫籠を見せる。彼女はとっさにのけぞる。

「大丈夫、怖くないよ。これ、ヒグラシっていうセミなんだけどね、今夜、羽化っていって大人の昆虫になるんだ。木の根と同じような色合いの身体の、背中が割れてきて中からとってもきれいな緑掛かった白色の身を少しずつよじって出てくるんだ。そして、透き通った翅を徐々に伸ばして、成虫になるんだよ」


 鶴岡さんは意外にも黙って私の方を見つめていた。

「そして、けたたましく鳴き叫んでつがいを見つけて次の代へと繋げてゆく。もちろん、運が良ければだけれど。そんなことを気の遠くなるようなずっと昔から続けてるんだよ」

「一週間で死ぬのにね」

「最近の研究だと、一カ月くらいが寿命らしいけど」

「あ、そうなんだ」

「ごめん、話戻すね」

「いや、こっちこそ話の腰折っちゃって」

「いやいや。それで、おんなじだと思うんだよ」

「はぁっ、虫みたいって言いたいの?」

 鶴岡さんが詰め寄る。


「いや、そうじゃなくてね。土の中から這い上がって木を登って羽化するセミみたいに、鶴岡さんもきれいな翅がもう生えているかもしれないよ」

「はぁっ?何それ」

「あぅう」

 うーん。やっぱり今日の作戦も失敗かなぁ。


 鶴岡さんはうつむきながら握りしめていた両方のこぶしをすとんと落として、ローファーのつま先で地面を掘っていた。

「……セミの羽化ってさ、そんなにきれい?」

「うん、とってもきれいだよ。見せてあげたいくらい」

「そう」


 彼女はくるりと背中を向けるととぼとぼ歩きだした。

 秋の初めの、身にまとわりつく熱の中にほんの少しだけ新しい季節の涼しさが混ざった心地よい風。

 一瞬それが止んだときに彼女が何かを呟いたけれど、私が訊き返そうとすると再び風が吹いてそれを妨げた。


「おっはよー、諸君。ってまだ誰もいないかぁ」

 窓辺から差し込む鋭い光は、冷たくさえ感じられるようになった朝の空気にかりそめの暑さをもたらした。


 今日は日が昇るくらいの時間までヒグラシの羽化を観察していたので、そのまま起きていて学校へ行くことにした。頭が少しくらくらしていたけれど、撮影もばっちしできたし、上々であった。


「委員長」

「おっ、その声は」

「おはよう」

 珍しく鶴岡さんが早めに来ていた。

「おはよう。どうしたの、珍しいね鶴岡さん」

「別に、気分?ていうか、あざみでいいよ」

 よく分からないけど急に距離を縮めてくれたらしい。

「逆に、まつりかって呼んでも良い?」

 思わず口角が上がった。

「いいよいいよ、あざみ、でいいんだよね」

「なにそれ」

 まゆをくしゃっとして彼女は笑う。

「して、あざみくん。今日は何色のパンツかね」

「はぁ?」

 おや、違ったかな?

「フツーにジャージだけど」

 彼女は中の短パンのすそが見えるくらいスカートをそうっとたくし上げた。


「ほうほう」

「ていうかあんたもワンパターンだね」


 あざみは急に私のスカートのすそを掴むと一気にまくり上げた。


 とっさのことで私は声も出せなかった。

「あ、水色の、縞」

 と先に声を出したのは彼女で

「じゃなくて、えぇと、だってフツー短パン穿いてない?」

 ごめん、と言って彼女はスカートを離したけれど、私はうつむいてしまった。


「まつりか、さん。ほんと、ごめん。ごめんって」

 顔がだんだん信じられないくらい熱くなってきた。 


 私は肩をだらんとさせると、あざみに向き直った。

「貴様、よくも」

 彼女の肩を押す。そしてブラウスを掴んで背負い投げのように振りかぶり、足を掛けながら後ろに回って彼女の脇から両腕を入れて首をロックした。


 コブラツイストである。


「うっ、ちょ、ちょっとこれ、外して、まつりかぁ」

 あざみはとっても苦しそうだけど、関係あるか。

 くそぉ。重森先生が乗り込んだ車は多分弟さんのだってこと、教えてやんないもん。


「くらえぇぇ」

「や、やめて。かはっ」

「あざみぃぃぃぃぃ」


 新庄さんと最上さんが登校してきた。

「まつりか、鶴岡と仲良かったんだな」

「と、止めなきゃ。ちょっとまつりか、やめなって」

 私は二人に引きはがされるまであざみに技をかけ続けた。


 爆ぜろ。

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学級委員 あじさし @matszawa

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