第38話 もう、間違えない


 私はたぶん、松崎のことを大事に思っている。それが恋愛感情なのかはわからない。


 けれども、塾の講師が生徒に対して抱く想いとして、強すぎることはたしかだ。人間の感情は複雑で、長さや時間、重さみたいに、簡単に数値化できない。


 そして――もしこの気持ちが恋なのだとしても、それは存在してはいけない感情だ。


 なぜなら、私は松崎の先生で、松崎は私の生徒だから。


 私が松崎に恋をするというのは、明らかに間違っている。だから私は、この気持ちをいったんなかったことにしなくてはならない。


 今の私がすべきことは、彼を合格へ導くこと、ただそれだけだった。


 自分の感情と彼の希望を切り離して考える。客観的に、状況を分析する。


 彼は志望校のランクを上げたいと言った。本気で、そう思っている。それは決して無謀ではない。


 そして、私はそれをサポートすることができる。


 簡単なことじゃないか。


 私は松崎の希望を受け入れて、勉強を教える。彼の世界を広げる手伝いをする。それだけだ。


 そこに松崎の動機は関係ない。私がそこに首をつっこむ余地はない。


 ただ、彼を合格させることだけを目指して、できる限りのことをする。それが、私の仕事だ。




 日曜日で気持ちの整理をつけると、また月曜日がやってくる。


 今週末には共通テストが控えている。


 私は昼すぎに塾に到着した。


 塾長の泉澤がすでに来ていて、教室の自習スペースには、何人か宿題をしている生徒もいた。


 私の到着から数分後、松崎も自習をするために塾にやって来た。成人の日で学校は休みだ。


「柊、ごめん。ちょっといい?」


「あ、はい」


 面談用のスペースに松崎を呼ぶ。緊張して、声が硬くなってしまった。


 先週のことがあって、気は進まなかったけれど、逃げるわけにもいかない。しっかり生徒に向き合わなければならない。


 そんなわけで、私は松崎と話をすることにした。


「昨日一日考えてみて、どう?」


「……やっぱり、大宮大学に進学したいです」


 松崎はその話だとわかっていたようで、表情を変えることはなかったが、少し言いよどんだ。


 私にまた反対されると思っていたのかもしれない。


「うん。じゃあ、大宮大目指して頑張りましょ」


「え?」


 拍子抜けしたような声。今度こそ、彼の表情が変わる。


「私も昨日、ちゃんと考えたんだけど、柊が本気で大宮大を目指したいって言うなら、反対する理由はないなって思って。難易度はちょっと上がるかもしれないけれど、二次試験までにはまだ一ヶ月以上ある。今からでも間に合うはずだし。おとといは突然で驚いたってのもあって……ごめんね」


 嘘偽りのない、私の本心を伝える。松崎に対して特別な感情を抱いているかもしれない、ということは隠しながら。嘘ではないことと、隠していることがあるというのは同値ではない。


「あ、いえ。俺の方も、急な話ですみませんでした。ありがとうございます」


「うん。とりあえず、まずは共通テストだね。もう一週間ないから、本番と同じ形式で練習して、あとは少し不安なところの確認かな。共通テスト終わったら、すぐ二次対策。大宮大と愛国大は、形式は少し違うけど、分野とか難易度はあんまり変わらないから、あんまり焦んなくて大丈夫。とりあえず今のうちに赤本だけ買っといてほしいかな」


 ぎこちない笑顔になっていないか。声は不自然になっていないか。客観的に確かめる術はないけれど。


「えっと、赤本は昨日買いました。でも……」


 下を向いた松崎の言葉が途切れる。


「他に、何か心配なことでもあるの?」


 できれば、その不安を取り除いてあげたい。


「親に話したら反対されてしまって……」


「え、そうなの?」


「はい」


 松崎の両親とは何度も会ったことがある。生徒の保護者とは年に三回ほどの面談をすることになっており、成績の推移やこれから先の授業の進め方について話し合う。基本的には塾長である泉澤が行うが、私が主に担当している生徒に関しては、私も同席する。


 松崎の両親は真面目だった。いい意味で庶民的な人たちだ。教育熱心ではあるが、度が過ぎているというわけでもなく、何がなんでもこの高校に、大学に入りなさい、というような感じではない。そういう面もあって、松崎はのびのびと学習できている。


 だから、松崎が志望校を変えることに関して、喜びはしても、反対するとは思いもしなかった。大宮大学は愛国大と違い、実家から通える距離にあるわけで、親としても安心なのではないだろうか。


「反対の理由は?」


「愛国大で十分だって。高望みしすぎて落っこちたらどうするんだって言われました」


「なるほどね」


 ただでさえいいところに進学できるはずなのに、それ以上を目指すリスクが怖いということだろう。つまり、息子に危険な橋を渡らせる必要はないということだ。


 おととい、私が言っていたことと同じだった。気持ちはわからなくはないし、両親の言うことも一理ある。


 それでも、私は本人の希望を優先したいと、今では思っている。


「よし。それじゃあ、近日中……はちょっと難しいかもしれないから……共通テストが終わったら、一度、ご両親も交えて話し合いましょう」


「わかりました」


 迷いのない、力強い目だった。


「うん。とりあえず共通テスト頑張ろう」


「はい、よろしくお願いします」


 もう、間違えない。


 最後まで講師として、生徒の受験をサポートする。




 松崎の志望校の件がひと段落したところで、中二の仲良しトリオに異変が発生する。


 米原よねはら流星りゅうせいが、鶴岡つるおか政樹まさきと坂本めあを避けているようなのだ。いつもは三人で一緒に塾に来る彼らが、別々に入って来たのだ。それだけなら特に気にならないのだけれど、いざ授業が始まると、米原だけ離れた席に座った。今までは三人で固まって座っていたのに……。

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