第36話 名前すらわからない感情


「どうして、今になってそんな……」


 動揺して、つい情けない声が漏れてしまう。


「どうしてもです」


 松崎の瞳は真剣そのもので、思いつきで言っているわけではないことはわかった。


 大宮大学はここから近く、松崎の家からも電車で通える距離にある。


 ああ……なるほど。


 私は気づいてしまった。


 竹原結佳と遠距離になるのが嫌で、近くの大学にってことね。


 腑に落ちて、戸惑いは小さくなっていった。


 代わりに、別の感情が押し寄せてくる。


 ドロドロしていて、重くて、黒くて、ぐちゃぐちゃで……何がなんだかわからないような感覚に陥る。今まで生きてきて、こんな気持ちになったことなんてなかった。


 深く呼吸をして、名前すらわからない感情を必死に沈める。落ち着かなければ……。


 私は冷静さを取り戻しつつ、これからのことを考える。


 本当に松崎が大宮大学を目指すのなら――。


 共通テストで使う科目はそのままだが、二次試験の対策はまったくしていない。とはいえ、学部が変わらなければ、そこまで問題はないだろう。


 共通テストの自己採点の結果を見てから、志望校を今までとまったく違う大学に変えて合格した人なんて、いくらでもいる。


 担当する講師としては、非常に微妙なところだ。賛成するか反対するか、まさにフィフティフィフティといったところだろうか。しかし、裏に隠された動機を邪推してしまった私の天秤は、ゆっくりと傾いた。


「私は賛成できないかな。そもそも、愛国大でやりたい研究があったんじゃないの?」


 愛国大のオープンキャンパスの翌日、目をキラキラに輝かせていた松崎のことを思い出す。


「はい。でも、それは愛国大じゃなくてもできます」


「愛国大でもできるわけでしょ。なら、危ない橋を渡る必要ないじゃない」


 いかにも正論を言っています、というふうに、自分を納得させながら、私は松崎に向けて言葉を紡いだ。


「でも、やっぱり偏差値の高いところにいっておいた方が――」


「とにかく!」


 松崎の話を途中で遮る。これ以上会話を続けてしまったら、表に出てはいけない何かが、私の意思に反して這い出てきてしまいそうだった。


「もう一度よく考えて。また来週、話しましょう」


 その台詞は、松崎に対して言っているというよりは、自分に言い聞かせているような気がした。今は、彼の言っていることを正しく受け止めることができないと思うから。




 松崎の授業が終わって、塾長の泉澤に相談することにした。


「うん。聞いてた。僕も驚いたけどね。鎌田かまた先生は、どう思ってるの?」


 泉澤はストレートに尋ねてきた。


「私は……反対です」


 少し迷ったけど、思っているままを打ち明けてしまった方が楽だろうと思い、私は答える。


「どうして?」


「愛国大に向けて今まで頑張ってきて、それなのに今さら、受かるかもわからない大宮大なんて……」


「大宮大を受けるとしても、頑張ってきたことが全部無駄になるわけではないよ。それに、受かるのかわからないのは愛国大もじゃない?」


「そうですけど……」


 泉澤の正しい意見に閉口する。愛娘のまどちゃんが絡んでいなければ、とても頼りになる人なのだ。


「それに柊は、自信がなくてレベルを下げているんじゃなくて、もっと上を目指せるから狙おうとしているんじゃないの? それがあまりにも無謀でない限り、応援するべきだと僕は思うな」


 正論だった。わがままを言っているのを諭されているような気分になる。


 たしかに彼の言う通りだ。それは私にもわかる。


 じゃあ……私はどうして、反対しているのだろう。


 考えるまでもなく、理由はわかっていた。


 ただ、それを認めたくないだけだ。


 松崎が大宮大学へ進学したいのは、彼女である竹原と離れたくないため。それが本当かどうかはわからないけれど、私はそう感じてしまった。私と志望校に向けて頑張ってきた日々を、ないがしろにされた気がしたのだ。


 これは、嫉妬なのだろうか。そうだとしたら、あまりにも醜い。


 立場上、私は松崎の先生であって、泉澤の言う通り、松崎の選択をしっかり受け止めて適切に応援、支持する義務がある。今の私は、塾講師として完全に失格だった。


 私的な理由で反対する権利なんてないし、そもそも松崎がどういった理由で志望校を変えたいと言っているのかさえ不明確なのだ。


「それに、大宮大って、鎌田先生の出身大学でしょ? 生徒がそこに行きたいって言ってくれてるの、嬉しくない?」


 そう、大宮大学は私の出身大学だ。机にかじりついて懸命に勉強した日々が懐かしい。憧れの大学に合格した瞬間のことは、今でも思い出せる。


「まあ。嬉しいですけど……」


「柊は、鎌田先生が初めて受け持った生徒だったよね」


「あ、はい」


 泉澤がそれを覚えていたことに驚いた。


 彼は柔和に微笑むと、懐かしむように話し出す。


「最初に授業してもらったその日、柊のお母さんから電話がかかってきたんだ」


 それは、私が初めて聞く話だった。

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