第3章 恋愛相談

第25話 四捨五入したら十八歳ですー!


 生きてる意味ってなんだろう……。


「……た先生」


 あー、人生ってつらいなぁ……。


鎌田かまた先生!」


 今日の夜ご飯は何にしようかな……。


「三十路で独身の鎌田玲央れお先生!」


「まだ二十七歳です!」


 ただの悪口じゃねえか!


「四捨五入したら三十路じゃないですかー」


 坂本さかもとめあが口をとがらせる。


「残念でしたー。四捨五入したら十八歳ですー!」


 ピッチピチの中学二年生だからって調子に乗りやがって。お前だっていつかはしわしわのおばあちゃんになるんだからな! 覚悟しとけよ!


「それより先生、言われたとこ、終わったよ」


 坂本がプリントを差し出す。


「あー、ごめんごめん。今見るから。はい。次のプリント」


 時計を見ると、いつの間にか時間が過ぎていたことに気づく。


「さっき呼んだときもぼーっとしてたし、なんか魂が抜けたような顔してるけど、どうしたんですか?」


 坂本がぴょこ、と私の顔を覗き込みながら言った。


「別に。いつも通りだけど」


 というのは嘘だ。明らかに覇気がない。自分でもわかるし、生徒たちにも見抜かれている。


「ふーん」


 坂本は納得したんだかしていないんだかわからない様子で、とりあえず机に視線を戻す。


 仕事なのだから、シャキッとしないといけないのはわかっているけれど……。


 昨日から、気持ちが落ち込んでいる。


 原因は明確だった。私は、失恋をしたのだ。いや。失恋と呼べるほど、立派なものでもない。水谷みずたにさんに対する私の気持ちはたぶん、恋ですらなかったのだから――。


 昨日、水谷さんと交わした最後の会話を思い返す。




「こうして、鎌田さんと一緒に過ごしてみて思ったのですが――」


「は、はい」


 お互いに、お付き合いとか結婚とかを考えることを前提にして、こうして会っているのだ。そういう話になるのは当たり前だった。それなのに心の準備はできていない。ドキドキがヤバい……。


「すごく、鎌田さんのこと、素敵な人だなって思いました」


「あっ、ありがとうございます」


 体温が上昇するのを感じる。顔が熱い。ストレートに好意を伝えられることに慣れていなくて、上手く返事をできているかもわからない。


「でも……」


 でも……?


 穏やかだった水谷さんの笑顔が、少し切ないものに変わる。


「お付き合いしたりとか、結婚したりとかはイメージができませんでした。申し訳ないのですが……」


 私は水谷さんの口から発されたその台詞をかみ砕くのに、数秒を要した。


「……そう……ですか」


 ショックだった。問題なく、この人となら将来を考えられると思っていた。


 でも彼は、私とではダメだと言う。


「はい。ごめんなさい」


「あ、いえ。謝らないでください。むしろ、私みたいなつまらない人間のことを、真剣に考えてくださってありがとうございます」 


「つまらなくなんかないです! 鎌田さんと一緒に過ごす時間はとても楽しくて、ずっと続けばいいのにって思ってます」


 水谷さんは焦ったように、早口で話す。なんだか、言わせてしまっているみたいで申し訳なくなってくる。


 それなら――


 どうして私じゃダメなの?


 どうして視線を合わせてくれないの?


 どうして今にも逃げ出したそうに下を向いてるの?


「水谷さんは、優しいんですね」


 並べた疑問を笑顔で隠しながら、できるだけ柔らかい声を作る。


「……よく、言われます」


 どうして――あなたが傷ついたような顔をするの?


「それでは、ありがとうございました」


 私はそう言うと、くるりと背中を向けてその場から歩き出した。


 帰りの電車に揺られながら、私はちょっとだけ冷静になりつつあった。


 よく考えれば、プラスマイナスゼロだ。元々、私に恋愛なんて無理だっただけで、手に入るはずだったものを逃してしまったとか、そういうことはまったくなく、最初から手に入るはずのないものを望んでいただけ。


 そう考えると、少し気が楽になった。




「まあ、人生色々あるもんな。元気出せよ」


 坂本の後ろの席に座る米原よねはら流星りゅうせいが言った。中学二年生の男子に励まされる二十七歳独身女性。どうしてこうなった……。


「米原くんが真面目に勉強してくれれば元気が出るかもしれないな」


「俺、今日はちゃんとやってるぜ。ほら」


 そう言って差し出したプリントは、たしかに空欄が埋まっていた。


「あのね米原くん。わからないところに適当に数字を入れるのは、ちゃんとやってるって言わないの」


 三角形の角度を答えさせる幾何学の問題に、150°と解答している。いや、どう見ても鋭角なんだけど。


「でもわかんないんだし、仕方ないじゃん。テストのときには適当でもいいからとにかく埋めろって教えてくれたの、鎌田先生だし」


「その通りだけど、今はテストじゃないでしょ。わからなかったら質問しなさい」


「今質問しようとしたら、先生がぼーっとしてたから」


 米原は不満そうに反論した。


「あ、うん。そっか……。ごめんね。どこがわからない?」


 まだ何か言いたそうにしていたけれど、米原はわからない箇所を指さした。


「ここに補助線引いてごらん。そしたらわかると思う」


 いっそ人間関係も、数学みたいにはっきりしていればいいのに。


 人の心に補助線は引けないし、感情は数値で表せない。


 相手の性格やライフスタイルから、恋人になる確率を算出することもできない。


 学校に恋愛って科目がなくて本当によかった、などとバカげたことを考える。


 考えれば考えるほど、よくわからなくなってきて、注意力が散漫になる。


 少しは抜けた魂も戻ってきて、坂本めあに計算問題の解説をしていたときだった。


「あれ……あ、ここか。掛け算違っってるからだ。これがこうじゃなくって……」


 本日二度目の計算ミス。中学の範囲でこんなにミスをしてしまうことなんて、普段ならほぼあり得ない。


 そして、そういうことに目ざといのは、やっぱり女の子だ。


「先生、もしかしてフラれたのー?」


 坂本めあが、それなりに大きな声で言う。子どもは無邪気だ。ときにその無邪気さは大人を傷つける。


「え? いや、えっと……」


 私もすぐに否定すればよかったのに、言葉に詰まってしまった。

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