引っ越しのおはなし③
日曜日、昼より少し早い時間。ヒカルはアサを連れて、喫茶エトピリカへとやってきた。スマートフォンの地図アプリを使っているため、迷うことは無かった。
北欧風の内装が、窓の外からよく見える。食事時だというのに、店の中には誰もいないように見えた。
ヒカルは首を傾げながらもアサの手を引いて、喫茶エトピリカの扉を開いた。
「いらっしゃいませー!」
店員達が声を揃える。そのハツラツとした声に、ヒカルもアサも面食らってしまった。緊張も相俟って、二人の足がぴたりと止まってしまう。
「いらっしゃい。ヒカル君と、アサちゃんかな?」
喫茶エトピリカの店長が、ヒカルの正面までやってきた。
ヒカルはその声を聞いた瞬間に気付いた。電話で予約を受けてくれたのは彼なのだと。
「はい、ヒカルです。今日はよろしくお願いします」
ヒカルは声が裏返りながらも、頭を下げてそう言う。
「大丈夫だよ。緊張しないで」
店長は、ヒカルとアサを店の真ん中へと案内した。そこには、テーブルが一つと椅子が二つ。テーブルの上にはバラが飾られている。
見れば、店内の椅子と机は、真ん中に置かれたもの以外は全て取り払われていた。ヒカルとアサが、貸し切っている状態だ。
「ひーくん、すごいね。貸切だよ」
アサは目をきらきらと輝かせる。
対してヒカルは戸惑った。貸し切りなど頼んでいないのだ。
「あの、店員さん……」
ヒカルは不安げに店長を見上げる。店員はヒカルにウィンクし、声を出さず口の動きだけで「サービスだよ」と伝えた。
「ご予約のお客様、ご案内します」
店長は声を張る。
ヒカルは椅子に座る。少しだけ高い椅子はヒカルの足を浮かせた。落ち着かない足を、ヒカルはぷらぷらと揺らす。
アサはすっかり興奮状態で、生き生きとした顔で店内を見回した。
「こちらがメニューになります」
店長が、二人にそれぞれメニューを差し出す。見開き二ページのメニューには、子供に人気がある料理が描かれている。
ナポリタン、ハンバーグ、エビフライなど……手書きのイラストは、見ているだけで食欲がそそられるほどにリアルであった。
「あの、ひーくん……」
アサは不安げにヒカルを見る。全てのメニューが千円を超える。小学生であるヒカルが払えるのだろうかと不安に思ったのだろう。
ヒカルは胸を張った。
「大丈夫だよ。遠慮すんな!」
「ほんと?」
アサはメニューに顔を埋めた。暫く悩んでいたが、やがて顔を上げ、ハンバーグを指差した。
「私、これ」
「じゃあ、俺も」
ヒカルもアサと同じく、ハンバーグを注文することにした。。
「ハンバーグ二つ!」
「かしこまりました。ところで」
店長は、ヒカルと同じ目線の高さまでしゃがみ、ヒカルに耳打ちする。
「ケーキは、どのタイミングで持ってこようか?」
誕生日ケーキのことだ。ヒカルは少しだけ悩んだ。
アサには、誕生日ケーキのことは話していない。サプライズにしたかったからだ。だから、ケーキが出てきて一番びっくりして、尚且つ嬉しいタイミングとはいつか。ヒカルは考える。
「一番最初に持ってきてください」
ヒカルは言う。ハンバーグを食べた後では、驚きが薄れてしまうだろうと考えたからだ。
店長は頷いて、にっこりと笑う。
「わかった。すぐに持ってくるね」
店長が厨房へと向かう。
アサはヒカルに問いかけた。
「何のお話してたの?」
「んー? 別にぃ」
ニヤけた顔を、ヒカルは隠さない。隠す必要もない。なぜなら、すぐにサプライズがやってくるからだ。
三分ほど経った。じわりと、店内の照明が消え、暗くなる。
「え? 何なに?」
アサは慌てて辺りを見回す。不安になったのだろう、ヒカルの手をぎゅっと掴んだ。
不意に歌とギターの旋律が聞こえてきた。
「ハッピーバースデー、アサちゃん。
ハッピーバースデー、アサちゃん」
見れば、クロがカウンター席に座ってギターを弾いている。厨房に立っているセンが歌っている。
その歌は、目新しさのない、誕生日には定番の歌である。だが、美しい演奏と歌声に彩られたそれは、主役であるアサをうっとりとさせた。
厨房からソラが出てきた。彼は皿に乗せたホールケーキを抱えている。刺さった十一本のロウソクには、全て火が灯っていた。
「ハッピーバースデー、ディア、アサちゃん。
ハッピーバースデー、トゥーユー」
歌が終わると同時に、机の真ん中にケーキが置かれた。
チョコプレートには、ホワイトチョコレートで「誕生日おめでとう アサちゃん」と書かれている。
アサはぽかんと口を開いた。
「アサ、誕生日おめでとう!」
ヒカルはにっこりと笑いかけた。
「あ、そうだ。これもあるんだった」
ヒカルは思い出したように、鞄の中をあさる。ややあって、ラッピングされた何かをアサに差し出した。管理が悪かったのか、リボンはくしゃくしゃに曲がっているが、中身は無事のようである。
アサはおずおずと受け取る。ヒカルからプレゼントを貰うなど、初めてのことだった。
「開けてみろよ」
アサは、包装紙を破ることなく綺麗に剥がす。
中から出てきたのは色紙であった。クラスメイトからの寄せ書きだ。
「これ……」
「アサが引っ越すって言うからさ。クラスのみんなに声かけたんだ。みんな書いてくれたんだよ」
色紙の真ん中には、担任の先生が書いた「五年一組」の文字。そのすぐ下には、先生からのコメント。
『優しくてしっかり者の谷川アサさん。
これからも優しい谷川さんでいてください』
その下に、友達からのコメントが、名前をそえて書かれている。
『アサちゃん! 引っ越しても、ずーっと友達だよ』
『引っ越してもLOINしようね。元気でね』
『
それだけではない。クラスメイトのみんなが、一言ずつエールを寄せている。
アサは涙ぐんだ。引っ越すことをヒカルに伝えてから、たった数日。クラスメイトみんなから寄せ書きを貰えるとは思ってもみなかった。
右下、隅っこの角に、よく見慣れた字があった。
『俺のこと、忘れんなよ。ヒカルより』
アサの涙腺は限界をむかえ、
「ど、どうした? 変なこと書いてあったか?」
ヒカルはぎょっとしてしまい、慌ててアサに声をかける。悪口が書いてあったのだろうかと不安になる。
だがアサはそれを否定するべく、横に何度も首を振る。
「違うの。嬉しくて……」
色紙にアサの涙が落ちる。インクが涙に濡れて、にじむ。
ヒカルはそんなアサを見つめ、彼女が泣き止むまで黙って待つ。
暫く経って、アサが落ち着いたところで、取り皿を持ってきたクーがアサに声をかけた。
「ほら、ロウソク消して」
ケーキに灯されたロウソクは、じりじりと燃えて短くなりつつあった。アサは息を吸い、唇を尖らせてから、大きく息を吐き出した。
十一本のロウソクが、一本、また一本と吹き消される。やがて全ての火が消えると、クロや店員たちが、ワッと声をあげた。
「アサちゃん、お誕生日おめでとう!」
「アサ、おめでとう!」
ヒカルも言う。
続けて拍手が湧き起こる。
アサは嬉しくてたまらなかった。
今までで一番幸せな瞬間だと、そう思った。
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