引っ越しのおはなし②
ヒカルは緊張していた。
友達と電話をすることはある。電話には慣れているつもりだ。
だが、今回は知らない番号、しかも喫茶店にかけるのだ。来店予約を入れるためである。
スマートフォンに表示された、受話器のマークをタッチする。インターネットで調べた電話番号へと電話をかける。右耳にあてて、繋がるのを待つ。
三コール目で、電話が繋がった。
「はい、喫茶エトピリカです」
男性の弾むような声が聞こえる。
ヒカルの緊張は頂点に達した。激しい心臓の音が、口から洩れ出てしまいそうだ。
「お客様?」
返事がないことを不審に思ったらしい。店員と思しき男性の声は、電話越しに呼びかけてくる。
ヒカルは、大きく息を吸い込んだ。
「あ、あの、予約したいです」
声が裏返ってしまった。あまりの恥ずかしさに、ヒカルの顔が真っ赤に染まる。
「……ぼく、一人で来るのかい?」
電話の向こうから、店員が訊ねてくる。電話の主が子供だと気づいたようだ。問いかけの柔らかさにヒカルは安心して、ホッと息をついた。
「友達と行きます。今度の日曜日、友達の誕生日なんです」
ヒカルは言う。
電話の向こう、店員は困ったように唸ってしまった。
「うーん……ちゃんと来れる? 予約をするってことは、
ヒカルは肩を跳ねさせた。
理解はしている。だが、実際に指摘されると怯えてしまう。
「大丈夫です。行きます」
店員は暫し黙り込む。電話の向こうからは、紙を捲る音が聞こえてくる。
ややあって、店員が言葉を返してきた。
「例えば……
ショートケーキとリンゴジュースのケーキセットが七七〇円。
ハンバーグとオレンジジュースで一四三〇円。
他にもメニューはあるけど、だいたい同じくらいの値段だよ。
予算は大丈夫? お小遣い、足りるかな?」
ヒカルは、正月に祖父母から貰ったポチ袋を覗き込む。その中には、一万円札が一枚入っている。
ポチ袋の裏側に、先程教えてもらった値段をメモし、筆算する。ヒカルにとって四桁の筆算は難しかったが、何とか合計金額を出すことができた。
「あの……誕生日ケーキ、いくらですか?」
ヒカルは店員に問いかける。
「誕生日ケーキ? ホールのデコレーションケーキかい?」
「はい。友達の誕生日なんです」
ヒカルは、アサの誕生日であることを強調して店員に伝える。電話の向こうから、紙を捲る音と、店員同士が相談する声が聞こえてくる。
「チイ、ホールケーキ焼ける?」
「大丈夫よ。お客様?」
「うん。友達の誕生日を祝いたいんだって」
「じゃあ誕生日ケーキね。了解」
電卓を叩く音が聞こえる。暫く経って、店員は返事をした。
「大丈夫だよ。そうだね……二五〇〇円」
「二五〇〇円!」
やけに安いなとヒカルは思った。母が行きつけにしているケーキ屋では、ホールケーキは四千円ほどである。
だが、子供であるヒカルにとっては、この値段設定がありがたく感じた。
「じゃあ、ハンバーグ食べて、ケーキ食べたとしても、五三六〇円……うん、大丈夫」
ヒカルは決めた。この喫茶店に予約を入れようと。
「店員さん、予約、お願いします!」
「じゃあ、お名前教えてくれる?」
「はい、鈴宮ヒカルです!」
「鈴宮ヒカル君ね。友達の、下のお名前は?」
「アサです」
ヒカルは、店員に問われる内容に答えていく。人数、日にち、時間……そして、当日は必ず来店するように念押しされた。
「じゃあ、日曜日。待ってるよ」
「はい、よろしくお願いします!」
ヒカルは礼を言ってから電話を切る。
途端に、ドッと疲れが押し寄せた。随分と緊張していたようだ。心臓がうるさく鳴っている。
自室のベッドへ仰向けになると、深呼吸を何度か繰り返した。達成感を覚え、ニンマリと笑みを浮かべる。
大人が通うような、洒落た喫茶店に予約を入れた。
自分のためではなく、大親友のアサのために。
ヒカルは、天井に向かって両手を突き上げた。
――――――
店長は電話を終え、受話器を電話機に戻す。開いたメニュー表とメモをした雑用紙が、カウンターに散らばっている。
喫茶エトピリカのカウンターで、店長は頬杖をついてフフッと笑った。
「なぁ、信用してよかったのか?」
そばで見ていたソラが、店長に声をかける。
電話の内容を聞く限りでは、相手は子供のようだ。しかも、店長はホールケーキの値段を非常に安く見積もった。ソラはそれが気に入らないようだ。
「友達の誕生日なんだって」
「それ、関係あるか?」
店長はメニューを閉じる。散らばった雑用紙を拾い上げ、まとめてゴミ箱へと捨てる。
「まあ、いいじゃないか。ケーキは損が出ない程度の値段だし」
「店長の決定だから、何も言わねぇけどさ」
その会話を聞いていたセン、クーが話に入る。
「子供が、友達の誕生日をここで?」
「親は同伴しないの?」
「うん、二人で来るらしいよ」
店長は頷く。
「いいじゃない。じゃあ、私も日曜来ちゃおっかな」
そう言ったのは、カウンターでオレンジジュースを飲んでいたクロである。彼女はウィッグを弄りながら、店長に笑いかけた。
「いいでしょ?」
「ああ、大歓迎だよ」
センはクロを振り向く。
「もしかして?」
「うん。だって、友達の誕生日のためなんて、かわいいじゃない。だから、ね?」
クロは含み笑いをした。何かを企んでる顔だ。
センは、クロの企みを理解した。
「いいじゃん」
「でしょ?」
そう言って笑い合った。
日曜日が楽しみで仕方ないと、そう言うように。
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