前の奴の続きだよ! 

 学校生活は僕にとって、特筆するべきビッグニュースもアクシデントもないつまらないものだと思う。

 断言できないのは、僕自身つまらないことに気を遣っているからだ。

 時に行事ごとがあっても、終わってしまえばそれっきり。

 その箱の中、僕は胸の内を隠しながら大人になっていく。僕の素性を認めてくれる誰かがいる訳でもなく、適当なグループに入って、笑って、喧嘩して、一緒に泣いて。それを何回か繰り返していたら、いつの間にか季節が変わって別れが来る。

 結局残ったのは『そういう思い出』だけで、人生観が変わったとかいうことは一切なかった。

 僕はそのグループの中で、目立たないように、後ろ指を指されないように立ち回っている。

 今まで逃げるように、自分に嘘をついて頑張ってきたのに同性愛者疑惑がかかったら……きっと僕は死んでしまうだろう。

 世間的にそういう人が増えてきて、そんな人達を認める人もいるのだろうけど、それでも怖いのだ。今までつるんでいた奴が白い目を向けて、僕から離れていくのが。


 小学生の頃、周りを信用して自分のことを言いふらす奴がいた。自分のことから、親戚の癖に至るまで。いずれ彼の周りには人がいなくなり、学期が変わるとひっそりといなくなった。傍観者だった僕は、「ああはなるまい」と幼いながらに決意したのだ。


 午後一時七分。僕は机に突っ伏して、寝たふりを遂行していた。直射日光が僕を嘲笑うかのように差し込み、腕の一部が焼けている。熱波が不快で仕方ないが、僕は食後眠くなる体質のせいで、こうでもしないと寝たふりが出来ないのだ。

 そう言いながらも机の木目の解像度が徐々に落ちていくのを感じる。瞼に重力が掛かり、意識もテレビの砂嵐みたいに絶え絶えになる。

 起きていよう、フリのままにしておこうと頑張ってみるも、やはり三大欲求の壁は分厚い。ブレーカーが落ちるが如く、ぐったりと机に倒れて動けなくなった。


「おい、起きろ、おら」

 身体が大きく揺れ、脳が振動で眩んだ。何の夢を見ていたか思い出す間もないまま声の主、そして同レベルのグループリーダーである四本敬吾しのもとけいごは続けた。


「お前、図書委員だっただろ? 行かなくていいのか?」


 冷や汗が走った。僕が遅刻するなんてあってはならない。しかし教室の時計は血も涙もない趣きで、一時十五分を指している。仮眠には完璧な時間だけど、予定が押している僕にとって八分のロスは大打撃だ。


「うわ、やば! 急いで行ってくる! サンキュー!」


 呆気にとられた敬吾をおいて、僕は廊下を疾走した。曲がり角でぶつかりそうになった同級生の驚きが冷や汗と上がる心拍数にかき消されていく。既に図書室開放の時刻は過ぎているが、間に合ってくれの一心で突入した。

 図書室は人どころか、鼠、虫程度の気配もなかった。よくよく考えてみれば当然の結末だった。遅れてもそれを咎める人はいないし、そもそも図書室に入り浸る人がいない。だけど努力が無駄になったような気がして、僕は肩透かしを食らったように膝から崩れ落ちた。


「あの……貸し出し、お願いできますか?」


 間髪入れず、誰かの声に立ち上がった。黒縁眼鏡のショートヘア、手にはノートと筆箱、端から見ても厳格な文学少女だ。危うい態度をとってしまえば最悪、学年が違えどとことん手厳しくされる、そう察した僕は半ば逃げるようにカウンターへ走った。


 文学少女が手渡してきた本は分厚く、ハードカバーも無機質だ。粗のある力強いタイトルと夕焼けの写真が目に飛び込んでくる。保身を優先した甲斐あってか、別段何も起こることなく、その場を切り抜けた。


 文学少女は手続きを済ませた本を受け取るなり、図書室の席に腰掛けてノートを広げた。僕も図書委員の業務に勤しまねば。

 新着本の棚に届いた本をセット。五十音順に本を並べ直し、デスク周りの片付けでもすればあとは何をしていても問題ない。結果第一だけどこういうときに好きなことが出来るぶん、他の委員会より幾分かマシだと思う。


 あとは元の場所に帰れなくなったものを仕分けるだけだ。中身をパラ見して、棚へしまいに行く。席を立ち、最寄りの『日本文学』の棚を右折しようとした途端、胸元に軽い衝撃が走った。硬い感触がぶつかり、僕はよろめいた。手に持っていた本がバラバラと音を立てて自由落下していく。あぁ、折角種類別にしておいたのに。


「す、すみません! すぐ拾いますから……」

 先程の文学少女が頭を下げた。我に返って、僕もお辞儀し返した。


「あぁ、僕も手伝いますよ」


 二人して散らばった荷物をかき集める。大体整理し終わった頃、通路の隅にノートが広げてあるのを見つけた。この外見の人だから、どうせ数式だとか、教科書の写本が綴ってあるのだろう。だが探求心は抑えられない。中身をよく見ようと、僕はノートに手を伸ばした。


『恥ずかしそうに視線を落とす君を見て、僕は悪戯っぽく手を握った。骨張った掌の感触、絡み合う指、子供体温に身体が疼いてしまう。業の深い、許されない事だと解っていても、欲求には逆らえない。ヒグラシの鳴声が微かに聞こえる中、僕は君の首筋に手を回し……』


 視界にいる文学少女の顔がみるみる赤くなり、僕の手からノートをぶんどった。


「中身、読んでたよね」

「いや……読んでないです」


 文学少女は床に突っ伏した。『図書室では静かにしましょう』の貼り紙も無視して、文学少女は頭を床に打ち付けて慟哭した。悶えるような悲痛の声が、本棚に反響して耳元を掠めていく。


「誰にも言ってなかったのに……! 今まで隠し通してきたのに! ……いっそのこと死んでも――」

 文学少女は窓際に駆けていき、枠に脚をかけてしまった。


「待って! 気を確かにー!」

 僕は今にも飛び降りてしまいそうな文学少女の制服の裾を引っ張った。それでも一線を越えようとする力は大きく、瞬く間に膠着状態へと陥った。


「止めてくれるな! 一生恥じるくらいなら死んだ方がマシだ!」

「恥じゃありませんよそれくらい! 僕にだって恥の一つや二つくらい……」

「それじゃ言ってみてよ! その恥とやらを!」


 やや経って、自分が墓穴を掘ったことに気づいた。数分後には僕の方が窓枠を乗り越えようと躍起になっているかもしれない。だけどここで口を噤んでしまえば、あの時に逆戻りだ。

 この間も文学少女は乞うように僕の口が開くのを待っている。根負けした僕は、仕方なく恥を暴露した。話した内容はよく覚えていない。こんなこと、覚えていたくない。


「まぁ、こういう事です」

 文学少女は深々と頷いた。完璧な一転攻勢に、もはや芸術性すら感じる。


「私と同じような趣味を持つ人を初めて見た。弾かれ者の私を理解してくれる人がいるなんて」


「誰にも言わないでくださいね。僕が言えたことじゃないですけど」

「人にバラすつもりはないさ。……君になら、頼めるかもしれない」


 雲行きが怪しい。時計の時間を刻む音が鼓動と同期して、汗が一雫机に落ちた。クーラーがよく効いた部屋なのに。文学少女はおもむろに制服の内ポケットから、短冊程度に折りたたんだチラシを取り出し、机に軽く叩きつけた。


「知り合ったばかりで悪いけど、私の代わりにイベントの店番をしてほしいんだ」

 チラシを開くと、『同人誌即売会』の文字が躍っている。


「……取引って意味ですか?」

「ははっ、最悪そうさせてもらうよ」


 文学少女は悪魔的かつ、屈託のない笑みを浮かべ、図書室を出ていった。取り残された僕は、蛇に睨まれた蛙のような顔をして、机の上のチラシに視線を運んだ。今まで気づかなかったがチラシの端に、小さくLINEのアドレスと名前が書いてある。


若槻麻耶わかつきまや』と、いかにも大和撫子を彷彿とさせる名と字体、風貌。まさに名は体を表す。そんな人が女々しい真似をするのが面白くて、口元が綻んだ。

 図書室の戸締りをする僕を急かすように、掃除のチャイムが鳴った。

 







 自分を露わにするのも、自分が別の存在に変わるのも随分ご無沙汰だった。近未来的なパーカーを羽織る。

 幸い自分の肌は色白な上、今日は補正もかけているからパーカーの蛍光色が良く映えるはずだ。

 いつだったか、この姿になったとき、自分を見失ってしまいそうでひたすらに怖くなったのを覚えている。ショッキングピンクのストレートヘアーを被り、コンタクトレンズを一色ずつ眼球に装着する。

 そこから頭の上に発光する機械的な動物の耳でも付けてしまえば、僕も電脳世界の住人だ。

 陰の世界にいた男子がここまで変貌するのに、かなりの時を要した。

 ただでさえ、顔の形を粉やペンで誤魔化すだけでも一日が削られるのに、服を揃え、カラコンを揃え、小物をかき集める時間は考えただけでも気の遠くなるような時間だった。


「あら、今日はイベントがあるの?」

 葵姉さんがドアの陰から言った。そういえば、僕にコスプレの何たるかを教えてくれたのは葵姉さんだった。

 姉さんがまだ未成年者だった頃、つれない妹たちに代わって僕が衣装を着せられていた。昔は姉さんの助けがないと着付けもできなかったのに、今ではメイクに至るまで単独行動している。懐かしい。


「うん。……でも、今回でコスプレはやめようかなって、思ってる」

「……そう。私ができなくなった代わりに、跡を継いでくれて嬉しかったんだけど。目の保養にもなるし」


 姉さんの寂しそうな言葉に胸が痛む。だけど、これっきりにしないといけない。昔は趣味だったコスプレも、今では性嗜好を誤魔化すための逃げでしかなくなった。コスプレをしていた自分とはきっぱり別れないと、自分が駄目になるような、別の人格が現れるような気がしてならないのだ。事が終われば、全部燃やすぐらいの覚悟もできている。


「それじゃ、行ってきます」

「えぇ、行ってらっしゃい」


 列車を何本か乗り継いだ先にイベント会場はあった。時間に間に合って本当に良かった。放課後に麻耶さんから書き上がった同人誌を持って、会場に乗り込んだ。

 商売の経験は僕にはない。周りの商人の真似をして着席する。『何かあったら電話して』と麻耶さんに言われているものの、僕には人との通話に慣れていない。あくまで最終手段だ。余り時間を手遊びで潰し、開始時刻になった。

 時計が十時を指した頃、会場内は戦場と化した。すし詰め状態になる建物内、汗、制汗剤、香水の混じった臭いが満ち、人が右へ左へ流れていく。


「一冊ください!」

「クオリティ高いですね!」

「いつもの人はどうしたんですか?」


 人間の波の中、うねるように僕のブースにやってきて言葉をかける人たちはまるで歴戦を勝ち抜いてきた勇者だ。風格が違う。麻耶さんの文章は万人受けするのか、麻耶さん自体に厚い人間関係があるのか、はたまたそれ以外かそれら全てか。同人誌は完売した。

 達成感は多少なり感じた。しかしそれ以上の喪失感も味わった。これで、僕の一部とはサヨナラだ。覚悟はできても、できれば失いたくなかった。

 いや、捨てると決めた以上やり遂げないといけない。そうしないといけないのは僕が一番わかっている。早く麻耶さんの家に行って、バイト代もらって帰ろう。僕は後片付けをして、席を立った。


「あ、あの!」

 後ろから声が追いかけてきた。明朗快活、男の声。ぼくはゆっくり振り返った。


 僕は目を疑った。目の前の光景を、心の何処かでは信じたくなかったのかもしれない。

 目の前に経っていたのは他でもない、尚人そのものだった。


「可愛いですね、その衣装。よければ、写真撮りたいんですが」

「あ……、どうぞ」

 首を縦に振るなり尚人はスマホを取り出した。わざわざ明るい室内で、フラッシュまで焚いて。

「ありがとうございます!」

 尚人は踵を返した。コスプレの中身が僕だって事に、尚人は気づいていない。当たり前だ、僕の技術に抜かりはない。それがとんでもない足枷、外れない仮面になった気がした。……いや、僕がそうしたのだ。僕が僕を縛ったのだ。僕自信が僕でいられなくするように。元の姿が苦痛となるように。

 トイレの鏡に映る顔を見た。僕の面影は一切ない。

 服とウィッグを剥いで、メイクを落とした。引退の覚悟をして正解だった。丁度髪飾りが片方ない。尚人が好いてくれたこの少女も棄てて、全部やり直そう。恋愛感情も、全部消してやろう。それが僕の出来る最善だ。


 列車が来るまで、あと七分。自販機から取り出した冷えた緑茶が、身体を芯まで冷やしている。そういえば、尚人との約束が残っているのを思い出した。LINEのトーク履歴には簡潔な約束が取り決められている。僕は『トーク履歴を削除』をタップした。尚人には悪いが、約束の指切りをしてないから。

 列車が来るまで、あと五分。

「もしかして……透瑠か?」

 尚人がいた。前の電車で帰ったと思っていたのに。

「透瑠だったんだな。あの人は」

「人違いだよ、もう行くから」

「待てよ!」

 尚人は僕の手に尖った者を握らせた。開いてみると、なくしたはずの髪飾りが覗いている。

「あの人……もう透瑠って呼ぶべきか。お前が帰り際、これを落としていったから追いかけてきたんだ」

 なんでわざわざ。髪飾り一つ落とした程度、何の問題もないのに。全部捨てる気でいたのに、未練が残るじゃないか。

「ありがとう、それじゃ」

「おい!」

 尚人が僕を逃がすまいと、袖を強く掴んだ。

 列車が来るまで、あと三分。

「何に怒ってんだよ、お前は」

 もうやめてくれ。忘れさせてくれ。どうせ尚人と友達には戻れないのだから。

「なぁ、教えてくれよ!」

 そのとき、僕の頭に最悪の考えが浮かんだ。ここで気持ちを伝えてしまえばいい。尚人が僕を嫌ってくれれば、僕は過去の自分と別れられる。誰も幸せにならないけど、この状況を打開できる唯一の手札だ。

 僕は尚人の方に振り向き、真剣な眼差しで見つめた。

 今までずっと逃げ続けてきた。隠して、誤魔化して、先延ばしてきた。でも、もう迷いたくない。僕はもう迷わない。

「ぼ、僕は……」

 列車が来る。


 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る