カラスとクレパス

ツウラ(有)

第1話


 烏(からす)の濡れ羽色という言葉を知ったのは、貴方がいなくなったずっと後のことです。美しい黒髪を濡れた烏(からす)の羽に例えたこの言葉を聞いて、私は貴方を思い出しました。


 もう、顏も声も思い出せない貴方。貴方は私に、烏(からす)の羽の美しさを教えてくれた人でした。たったそれだけの大事なことを、何故私は今まで忘れていたのでしょうか。いや、忘れたのではなく、思い出さなくなっただけなのでしょう。あの頃私を苦しめていたものは、大人になった今も時折、私の心と体を苦しめます。だけどその時思い出すのは、もういない貴方ではないのです。そのことは、私にとって幸せなことなのかもしれません。


 貴方は今も、私を思い出すことがあるのでしょうか。それとももう忘れてしまったのでしょうか。もし思い出すことがあるのなら、それはどんな時なのかを聞いてみたい。身勝手な私は、そう思うのです。




 私は、普通のことが出来ない子どもでした。小学校の先生は出来ない私に根気強く説明してくれますが、私はそれに応えられず、いつも授業の時間を無駄にしています。そんな私がクラスメイトから嫌われるのも当然で、仲良くしてくれる子は一人もいません。パパとママも、言うことが聞けない私に苛立って毎日のように喧嘩をしてしまいます。

 簡単なことも覚えられず大事なことも忘れてしまう私は、ついには人の話す言葉さえ分からなくなってしまいました。皆の口から出る音を聞くと、頭に黒い煙がかかったようになって、上手く言葉に変換できないのです。その煙は私が焦ったり、心配な気持ちになったりしても出るようになりました。それが限界まで脳に溜まると、体が金縛りにあったように動けなくなってしまうのです。


「どうして私は、みんなと同じにできないんだろう」

 運ばれてきた保健室で、私は一人呟きました。


『そんな事知らないよ』


 返ってくるはずの無い返事に驚いて周りを見渡すと、窓の外に烏(からす)が止まっ

ているのが見えます。まさかとは思いつつ、私はその烏(からす)に話しかけました。

「今しゃべったのって、あなた?」


 烏(からす)は答えます。

『他に誰がいるんだよ』

「なんで人の言葉が分かるの?」

『あんたが烏(からす)の言葉を話しているんだろ』


 その烏(からす)はそういって飛び立っていきました。

 人の言葉を忘れた私は、何故か烏(からす)の言葉を覚えてしまったようです。皆にとって私の言葉は、烏(からす)の鳴き声の様に聞こえているのかと思うと恥ずかしくて、私は人前で口を開かなくなりました。

 喋らなくなった私を心配して、両親や先生はいろんなことを聞いてきます。でもその言葉さえも理解できずますます黒い煙が溜まり、金縛りになることも増えていきました。動けなくなって担架で運ばれるときに見る、天井と、覗き込む皆の顔が夢にまで出るようになりました。夢の中でも現実でも、その光景を見るたびに「消えてしまいたい」と強く願っていました。

 

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