第94話 すごい!

 手足が凍る。


 眩暈がする。


 背中を嫌な汗がつたう。


 今すぐ逃げなければ。逃げなければ、また言われてしまう。『バケモノ』と。聞きたくない。絶対に聞きたくない。もう二度と。あんな、あんな思いは……。


『もう一人くらい、おぬしが心を開ける者がいてもいいと思うんじゃがの』


 …………あ。


 それは、ふと頭をよぎった言葉。以前師匠から言われた言葉。師匠は分かっているんだ。私が、過去のトラウマを克服できていないことを。人間との関わりに慣れた今でさえ、人間への恐怖が心を蝕んでいることを。


 あの日、師匠の言葉に私は何も返さなかった。ただ曖昧に笑って、将棋盤を見つめていた。師匠も、それ以上話題を続けようとはしなかった。


 本当に、いいの? 今のままで。師匠の優しさに甘えたままで。過去に囚われ続けたままで。


 …………


 …………


 答えなんて、決まってる。


 いいわけない!!


「私、魔法使いじゃないよ」


 少女に向かって放つ声は、自分でも分かるくらいに震えていた。


「え? そうなの?」


「うん。私はね…………天狗」


「天狗!?」


 大きく見開かれる少女の目。先ほどの泣き声にも負けないくらいの大きな声が、辺りの空気を振動させる。


「さっきのは、天狗の力の一つで幻術って言うんだ。いろんな幻を相手に見せられる」


 私は、ゆっくりと天狗の団扇を振るう。瞬間、私たちの目の前にたくさんの蝶が現れ、空に飛び立っていく。


 驚いたように蝶を目で追う少女。口をポカンと開けて上を見上げるその姿には、子供らしいあどけなさがあった。幻術が解け、蝶が完全に見えなくなった後、少女はものすごい勢いで私の方に顔を戻す。


 少女からは一体どんな反応が返ってくるのだろう。私のことを怖がるにしても、できれば無言であってほしい。無言のまま、私から距離を取ってほしい。けれどもし、昔のように『バケモノ』と言われてしまったら……。


「すごい!」


 …………え?


「すごいよ! こんなの、私初めて見た。天狗ってすごいんだね。羨ましいなあ」


 私は耳を疑った。少女の言っていることが、全く分からなかったのだ。


「えっと。こ、怖くないの? 私、人間じゃないよ。天狗だよ」


「全然怖くない!」


 はっきりとそう告げる少女。そこに嘘や気遣いの情は感じられない。心から、私のことを怖くないと思ってくれているのだ。


「私のこと、バケモノって言わないの?」


「へ? 言うわけないよ。そんなことより、もっといろんなの見せて! 私、今度は猫ちゃんが見たい! 真っ白なやつ! あ、その後に茶色のやつも!」


 心の中はぐちゃぐちゃだった。どうして私のことを怖がらないのか。どうして笑顔を向けてくれるのか。どうして「すごい」なんて思いを向けてくれるのか。


 分からない。


 本当に、分からない。


「お、お姉ちゃん!? な、なんで泣いてるの?」」


「……あ」


 私の目の前の景色は、いつの間にか滲んでいた。

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