第21話

「ぜ、ひゅっ。はっ……ふっ……」

「先輩、生きてますか?」


 案の定。

 家に着く頃には、私はほとんど瀕死になっていた。


 そもそも夏の猛暑日に走るなんて正気の沙汰ではないのだ。普段のんびりしている人間が激しい運動なんてすれば、こうなるのは目に見えていたはずなのに。


 私はソファに転がって、息を整える。

 見れば、天乃は余裕そうだった。汗っかきだから結構汗は流しているけれど、私ほど息を切らしてはいない。


 天乃はソファの背もたれの方から私の顔を覗き込んでくる。

 その顔には嗜虐的な色が見える、ような気がする。


 天乃はそのまま背もたれの方からソファに乗ってきて、私のお腹の上に座った。


「先輩のそういう顔、初めて見ました。やっぱり先輩は、余裕がない顔の方が可愛いです」


 照れやすい割に、こういう時の天乃は臆せず私の懐に飛び込んでくる。

 その顔はいつもの天乃とは違う。余裕たっぷりという感じで、でも私の好きな真剣さもそこにはあって。


 思わず触れたくなるくらいにはいい顔だと思うけれど、あいにく今は疲れすぎていてそれどころではない。


「減らず口を叩く余裕もないんですね。……じゃあ」


 彼女は私の上から退いて、どこかに歩いていく。

 気が済んだのかな、と思って呼吸を整えていると、天乃はタオルを持って私の方に戻ってきた。


 くれるのかと期待したが、天乃はそこまで優しくはないらしい。

 手を伸ばすと、手首を掴まれた。

 そのまま天乃は、私の腰の上に乗ってくる。


 そんなに私の上に乗るのが気に入ったんだろうか。それならそれでいいんだけど、今は呼吸が苦しいからあまり嬉しくない。

 息が止まりそうだと思っていると、ブラウスのボタンに手をかけられた。


「そのままだと、風邪引きますから。拭いてあげます」


 私の返事を待たず、彼女はボタンを外していく。その手は微かに震えているような気がするけれど、それは私の胸が何度も上下しているためなのかもしれない。


 天乃は脱がせたブラウスを引き剥がして、床に放る。

 どうせ後で洗うからいいっちゃいいんだけど、もうちょっと大切に扱ってほしい。


「やっぱり先輩の下着は、あまりにもダサいです」


 どこか熱のこもった声で、彼女は言う。

 前にダサいと言われた時とは比べ物にならないくらい、感情が溢れている声だった。でもその感情がどんなものなのか、今の私にはわからない。


 疲れているせいなのか、疲れていなくても理解できないのか。

 わからないまま、天乃を見上げる。


「下も、脱がせますから」


 恥ずかしくはない。

 でも、これって姉妹のすることなんだろうか。


 いや。別に、姉妹のすることしかしちゃいけないなんてルールはない。けれど、これは元の私たちの関係でも、しないような行為ではないのか。


 頭がひどく熱を持っていて、思考がうまくいかない。

 普通と言われればそうな気もするし、今更抵抗するのもおかしい。


 そもそも、一緒に風呂に入ったこともあるのに、脱がさないでと言うのは変だ。

 だから私は何も言わず、天乃にスカートを脱がされた。


「ぐしょぐしょじゃないですか。……下着も、脱がしますから」

「……ぁ、まの」


 ようやく声が出る。

 私の声には、どんな意味があって、どんな感情がこもっていたのだろう。

 わからないけれど、私の声を聞いた天乃はひどく楽しげに笑った。


「そうです。私は天乃です。あなたは……夏澄、です」


 初めて名前を呼ばれた気がする。

 私が初めて天乃の名前を呼んだのは、初対面の時だった。彼女は苗字で呼ばれるのが嫌だから、名前で呼んでくれと言ってきたのだ。


 私のことも名前で呼んでいいと言ったけれど、結局彼女は私のことを「野坂先輩」としか呼ばなかった。


 今日になって初めて私の名前を呼んだのは、なんでなんだろうと思う。

 彼女が呼ぶ私の名前はどうにも普通と違って、脳を揺らすような響きがあった。


「ほら、脱がしやすいように背中、ちょっと起こしてください。風邪引いてもいいんですか?」


 自分でやるからいいよ。

 そう言うだけで天乃は止まりそうだけど、止まりそうにないようにも見える。


 真夏の昼下がり。

 クーラーのついた明るい部屋で、義妹に服を脱がされている。それは、背徳的なシチュエーションのようにも思える。


 脱衣所で脱ぐことと、それ以外の場所で脱ぐこと。

 服を脱ぐという行為自体は同じなのに、どうにもならないくらい意味が違って思えるのは、人間の妙なところなのかもしれない。


 裸になることに、なんの意味があるんだろう。

 服は別に、心まで覆って守ってくれるわけではない。


 だから裸になったって心が無防備になることはないし、特別気持ちが変わるわけではない。


 裸になって彼女と一緒に風呂に入った時、私は少し開放的な気分になった。


 でもそれを、今感じているのかといえば、多分感じていないだろう。

 その代わりに抱いている感情は、果たしてどんなものか。


 そんなことを考えていると、ブラを外される。

 いつの間にか、彼女が脱がしやすいように体を動かしていたらしい。


「下もやりますから」


 その言葉は触診する医者のように淡々としているようで、ある種の粘り気のようなものを含んでいるようにも聞こえた。


 私はそれに絡め取られるように、腰を少し浮かせた。

 昼の日差しが、窓辺を照らしている。その光は近いようで遠くて、やっぱり外とこの中は別世界だと思う。


 前、天乃はここで下着姿になっていた。でも今、私は下着姿どころか全裸になっている。


 下着を全部剥ぎ取られると、途端に寄る辺がないような心地になった。

 天乃は私の服を全部同じ場所に重ねる。


 服、スカート、下着。

 全部が無造作に重なっているのを見ると、なぜか心臓が跳ねるような感じがした。


 どくんどくんと心臓がうるさいのは、ただ単にさっきまで走っていたせい、ではないと思う。


 でも、そういうあれじゃない。含みはない、はずだ。

 汗が滲みた服をずっと着ていたら風邪を引いてしまうから、天乃が気を利かせて脱がせてくれただけだ。


 他の意味なんてなくて、感じちゃいけなくて、でも。

 何かが、違う気がした。


「綺麗ですね、先輩」


 天乃はにこりと笑って言う。

 今までにないくらい、楽しそうな顔をしていた。


 恥ずかしいわけじゃない。

 わけじゃない、はずなのに。


 こんなにも動じているのは、なんでなんだろう。

 前に天乃の前で脱ごうとした時は、別になんともなかったはずなのに。


 あの日の私と、今の私。

 一体何が違うのか。


「ほら、ちゃんと拭いてあげますから。動かないでくださいね」

「ちょっと、待って」


 息が整ってきたから、私は口を開いた。

 天乃は眉を顰める。


「なんですか?」

「やっぱり、自分で拭くから。タオル、貸して」

「嫌です。私がやると決めたので、先輩はじっとしていてください」

「じっとなんてできないよ」

「どうしてですか。もしかして、恥ずかしいんですか?」

「……違う、けど」

「合理的理由がないのなら、私がやります」


 天乃がやる理由もないのでは、と思う。

 じっと見つめていると、天乃もひどく汗をかいているのがわかる。


 これを姉妹のスキンシップと言うには、無理がある。私だけが天乃に体を拭かれるというのも、おかしい気がする。


 私も天乃の体を拭いてあげるということにすれば、ぎりぎりこの行為を姉妹っぽい行為にカウントできるかもしれない。


 ……なんで、私はこの行為を姉妹っぽいことという枠の中に入れようとしているのだろう。


 私は天乃と姉妹になれないのが怖いのかもしれない。

 天乃と姉妹になるための道を歩き出して、私は後ろを振り返らずにここまで来た。でももしかすると天乃は、私がかつて立ち止まっていた岐路で、別の道を歩き出していたのではないか。


 けれど。

 それを確かめる術なんてなくて、私はただ姉妹になるために歩き続けるしかない。


 それは天乃も同じなのではないだろうか。

 天乃が目指す道のために、天乃が目指す関係のために、彼女は彼女なりに必死に足を動かしているのかもしれない。

 その道が、私の道と交わるかどうかはわからないけれど。


「じゃあ、してもいい。……でも天乃も、すごい汗かいてるよ」

「……だったら、なんですか?」

「天乃もそのままだと、風邪引いちゃう」

「だから? ……はっきりしてください、先輩。先輩は一体、私に何をしてほしいんですか?」

「私にも、拭かせて」

「つまり、私にも脱げってことですか」


 私は小さく頷く。

 どっちか片方がやるんじゃなくて、お互いにやるのなら。

 それは姉妹のスキンシップと言える。のかも、しれない。


「……そうですね。私が風邪を引いても、馬鹿馬鹿しいです」


 天乃はそう言って、服の裾に手を置いた。


「その代わり、目、逸らさないでくださいね」


 私が見ている必要はないのでは。

 そう思いながらも、私は彼女を見つめた。

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