第14話

 天乃は私から目を逸らして改札を通り、自販機でペットボトルのカフェオレを買っていた。


 私はしばらく固まっていたが、子供が改札を通る音が聞こえると、自然と足が動くようになった。


 天乃を追って改札を通ると、彼女は何も言わずに私を見た。

 第一声が野坂先輩だったら嫌なので、私は彼女が口を開く前に声をかけることにした。


「天乃、忘れ物はちゃんととってこられた?」

「はい。先輩は、お話終わったんですね」

「うん。……おかげさまで、久しぶりに來羽とゆっくり話せた」

「なんの、誰のおかげさまですか」

「……神様かな?」


 天乃がこうやって言うってことは、やっぱり気を利かせてくれたってことだ。天乃は私の反応が気に入らないのか、眉を顰めてみせた。


「その顔、やっぱり天乃だ」

「記憶喪失にでもなったんですか、先輩」

「違くて。ちょっと、安心した」

「……は?」


 私は一歩彼女に近づいて、手を繋ごうとした。

 逃げられた。

 む。


「そういう顔、いつも通りの天乃だから。來羽と話してる時はにこにこしすぎて、ちょっと怖かった」

「……別に、私いつもいつも不機嫌なわけじゃないですから。ちゃんと笑う時は笑います」


 確かに彼女も時々笑うけれど、どちらかといえば不機嫌そうな顔をしていることの方が多い。


 いつもつんつんしていて、でも、結構素直で。

 私が知っている天乃と本当の天乃がどれくらい離れているのかはわからないけれど、私はいつもの天乃が好きだ。


 好きって言葉は意外と天乃にちゃんと届かない。嘘や冗談で人に好きって言ったことはないんだけど、天乃にそれを信じさせるのは難しいのだ。


 ちゃんと届いたら、それはそれでどうなるんだろうって思う。

 素直に好きを受け取って、天乃も大好きですお姉ちゃんと返してくれる?

 いやいや、そんなわけ。


 でもいつかちゃんと私の好きを信じてほしいなぁとは思う。そしたらいつもよりもっと嫌そうな顔で、キモいです、なんて言ってきそうだけど。


「先輩がキモいから、ちゃんと笑えないんです。反省してくださいね」

「はーい」

「……はーいじゃ、ないです。先輩、口開けてください」

「……? いいよ」


 私が小さく口を開けると、天乃は自分から口を開けろと言ったのに嫌そうな顔をした。


 しかし、彼女はそんな顔をしながらも、私の顎に手を当ててくる。ちょうど前に私がやったような形だ。


 普段ならなんてことはないはずのその仕草が、なぜかすごく変な感じ。さっきとは違う胸のざわつきが、妙に強く感じられる。


 何をされるのかと思っていると、口にペットボトルの飲み口が突っ込まれた。


 遠いコーヒーの風味と、暴れるような舌の甘さ。

 間違いなくカフェオレの味。天乃が飲むために買ったのだと思ったけれど、なんで私が飲まされているんだろう。


 哺乳瓶でミルクを与えられる赤ちゃんみたいで、少し恥ずかしい気がする。


「ねえ、先輩。カフェオレからミルクを完全に取り除くことって、できると思いますか? 飲んでる間、考えてみてください」


 天乃はそう言って、私の目を見つめてくる。

 いつもと同じ、真剣な瞳だ。

 顎から離れた手が、私の耳たぶに触れた。


 さっき來羽に触れられたのとは反対の耳。今日は人の耳に触るとラッキーになれるって、朝の占いでやってたりしたんだろうか。


 それとも私の耳がそんなに触りたくなるような形をしている、とか?

 これは自惚れである、完全に。


「間抜けな顔です。まるで、鳥のヒナみたいな。じっとしていてくださいね。カフェオレがブラウスにでも垂れたら、先輩も困りますよね」


 暴れるつもりはないのに、天乃は言い聞かせるようにそう囁いてくる。

 あんまりこの状況について考えているともっと恥ずかしくなりそうだったから、私はカフェオレについて考えた。


 コーヒーとミルクと砂糖が混ざっていて、元のコーヒーの風味なんてよくわからないくらい甘いこの飲み物。


 私はミルクティの方が好きだけど、どっちにしてもミルクと元の液体を分離させることはできないと思う。


 でも。

 彼女が求めているのは、単なるカフェオレの話ではないと思う。

 だとしたら私の言うべきことは。


「先輩」


 耳たぶをつねられる。

 痛くて顔を背けると、ペットボトルが弾かれた。


 ほとんど飲み終わっていたけれど、僅かにカフェオレが残っていたらしく、溢れたものが唇の横を伝う。


 天乃の手が頬に触れた。

 彼女の不機嫌そうな顔が近づいてくる。

 あっと思った時には、小さな舌が伝っていたカフェオレを舐めとってきた。


 犬だったら愛情表現だってわかるのに、天乃の舌は感情を伝えてはくれない。ただ触れられたという事実だけが残って、私の皮膚を仄かに温かくしてくる。


「あ、は。そういう顔もできるんですね、先輩。アホみたいで、可愛いですよ」


 前に可愛いと言われた時とは違って、自然な響きだった。

 自分がどんな顔をしているのかはわからない。でも、こういう時、天乃は馬鹿じゃなくてアホって言うんだなぁという場違いな感想を抱く。


 天乃は笑っていた。

 それは、見知った帰り道で知らない景色を見つけたみたいな、ある種の喜びと、それとは真逆の感情が混ざり合ったかのような笑顔だった。


 カフェオレだ、と思う。

 ごちゃ混ぜになった笑顔を分解して、含まれる感情全てを見つけることなんてできない。


 だけど、天乃が笑っているという事実が一番大事だ。

 瞳の裏側にまで、天乃が映るような気がした。


「甘いのはカフェオレのせいですか? それとも、先輩が甘いんですか?」

「……確かめてみる?」


 天乃なら絶対はいと言わないのをわかっていたから、私はちょっと挑戦的に言ってみた。


 いつもの天乃の真似だったけれど、効果てきめんみたいだった。

 余裕そうだった天乃の笑顔がみるみるうちに赤く染まり、そっぽを向き始めた。


 ううむ。私から言われると照れるのに、結構大胆なことをしてくるんだよなぁ。


 照れ屋なようで大胆。わかるようで、わからない。知っているようで、知らない。天乃はやっぱり、まだ遠い気がする。


「なんなんですか、その余裕。確かめたら先輩の思う壺なんでしょう? 絶対やりません。もう帰りましょう」


 天乃は空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、歩き出そうとする。

 私は遠のいていくその手を、ぎゅっと握った。


「……なんですか、先輩」

「今日はまだ、姉妹っぽいことしてなかったから」

「さっきのが姉妹っぽいことじゃ、駄目なんですか」

「お姉ちゃんの顔舐める妹はいないと思うよ」

「……じゃあ、いいです。お姉ちゃん、今日の夕飯はカニクリームコロッケがいいです」


 天乃は当然のように時間と手間のかかるメニューを言ってくる。

 思わず笑った。

 うん。天乃らしいな。


「いいよ。腕によりをかけて作るね」

「それなりに作ってください。あんまり本気になられても、キモいです」

「あ、天乃のキモいが出た。今日は気持ちよく眠れそう」

「……ウザいです。どうしたんですか、今日は。いつもより二割マシでウザキモお化けです」

「あはは、気にしないで」

「気にします。何を笑ってるんですか、何を」


 私は天乃の手を握ったまま、彼女の前を歩き出す。

 ちょっとバランスを崩しながら、天乃も歩く。


 見れば天乃は、やっぱり不機嫌そうに眉を顰めていた。

 私は満面の笑みで彼女を見つめた。


「……一度ミルクを入れたコーヒーはもう、元のコーヒーには戻せないよ、天乃」

「……そうですね。私も、そう思います」

「でも私は、それでもいいと思う。混ざったら混ざったで、ミルクにもコーヒーにも単体ではなかった美味しさが生まれるだろうし」

「生まれますかね」

「私はそう信じてる」

「……どうして?」

「天乃のことが、好きだから」

「……っ」


 ぷい、とそっぽを向いた天乃の耳は、真っ赤だった。


「なんでそこで私が出てくるんですか。わけわかんないです。キモいです。キモキモキモ先輩です」


 天乃は視線をあっちこっちにやってから、最後にようやく私に焦点を合わせた。


「先輩なんて。先輩、なんて。大……五郎です」

「私は夏澄だよ、天乃」


 天乃は答えないまま、眉を顰めて私を見ていた。

 私は何かまた別のことを言おうとしたけれど、ちょうど電車が来てしまったため、それ以上何も言うことはできなかった。


 二人して歩いて電車に乗り込むと、天乃は私の手に微かに爪を立ててきた。

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