第6話
ため息の後には沈黙が残り、沈黙の後にはまたいつもの空気感が戻ってくる。
私たちはいつもより少し早く部室を出て、手を繋いで校舎を歩き始めた。
今度はさっきとは違って、指を絡ませるようにではなく、ただ軽く手を繋いでいるだけだ。
ああいう繋ぎ方を長くしていると、多分天乃が照れてしまって練習にならない。
普通の繋ぎ方なら天乃も慣れてきているだろうから、大丈夫のはずだ。
最近は部室で頻繁に手を繋いでいるし。
「先輩は、高校卒業したらどうするとか決めてます?」
ぶらりと歩いていると、不意に天乃が言った。
天乃の手は相変わらず汗をかいていて、ちょっとしっとりしている。
ただの先輩後輩だった頃は、こうして手を繋ぐことはなかったから、少し新鮮だ。
「んー。とりあえず大学は行くかな。その後はどこかに就職して、何かしてるだろうね」
「夢がないですね、先輩は」
「そうかも。天乃は何か決めてるの?」
「私も似たようなものですけど」
「あはは、そっか。そんなもんだよね」
放課後の学校は部活動をしている生徒の声で満ちている。校庭から聞こえてくる声は野球部のものか、ラグビー部のものか。
「……私、先輩のこと何も知らないのかもしれないですね」
「そう?」
「そうです、きっと。……ハグしたって手を繋いだって、わかんないものはわかんないです。先輩は遠くて、背中すら見えない気がして」
天乃は私から一旦手を離して、手の繋ぎ方を変える。絡めるように私の手をとったかと思えば、普通に繋いでみて、手首を掴んでみて。
私との距離を探っているようにも思えた。
だから私はぼんやりとそれを眺める。
やっぱり天乃は、真剣だ。
「……誰かに恋をしたことはありますか、先輩」
「ないけど……天乃はあるの?」
「……わからないです」
「あるでもないでもなくて、わからないなんだ」
「そうです。恋するってなんなんですか? どんな思いなんですか? 家族になりたいってことですか?」
「んー」
中々難しいことを言うなぁ。
私の友達には彼氏がいる子が多いけれど、彼女たちの話を聞く限りでは恋というものは割とその場のノリな気がする。
なんとなくふわっと好きになって、付き合って、やっぱり合わなかったら次に進んで。
友情が一つじゃないのと同じように、恋もきっと一つじゃない。
無くなっては生まれて、生まれては薄れて。
多分そういうものだと思うけれど、どんな思いかといえば、うーむ。つまり、それって。
「明日も君の笑顔が見たい! って気持ちじゃない?」
「なんですか、それ」
「好きな相手には笑っててほしいじゃん? 気が合わなくなって、あんまり好きじゃなくなって、どうでもいいーってなったら笑顔でもそうでなくてもよくなるだろうし」
「……明日も君の笑顔が見たい。先輩は、誰かにそう思ったことがないんですか」
「どうだろうねぇ。うーん……。天乃、ちょっと笑ってみてくれる?」
「いや、いきなり言われても笑えるわけないじゃないですか」
天乃は少し呆れたような表情を浮かべた。
「それもそうだ。んー。じゃあ、ダジャレを言ったのは——」
「誰じゃ、というのは死ぬほどつまらないので却下です」
「む……」
「はぁ。先輩は本当にどうしようもないですね。劇的にキモくて、ウザくて、つまらないです。恐ろしさすら覚えます。……ほら、もう帰りましょう。練習は十分ですから」
「手、繋いだままだけど。このまま帰るの?」
「いちいち聞かないでくださいよ、ばか」
天乃はそう言って、顔を少し赤くした。
窓から差し込む茜色よりも赤いその顔は、いつもと変わらず可愛いものだった。
私は目を細めて、天乃の手を少し強く握って歩き出した。振り返って天乃に笑顔を向けると、彼女は微かに眉を顰めてから、強く私の手を握ってきた。
帰る途中、天乃が汗びっしょりになっていたのを見て、私はすぐ近くにあった公園で休憩をとることにした。
今日は特別猛暑であるためか、天乃は少し目の焦点が合っていなかった。熱中症になるとまずいと思い、近くのコンビニで冷たいものを買ってきて彼女の元に戻る。
天乃はベンチに座って、ぼんやりと空を仰いでいた。
私はコンビニで買ってきたラムネの瓶を、彼女の手に当てる。
彼女は視線だけを私の方に向けた。
「首筋に当てたり、しないんですね」
「今の天乃にそんなことしたら、口から全部出ちゃいそうだからね。魂とか」
「なんですかそれ。つまんないです。……ラムネ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
私たちはラムネの栓を開けて、静かに飲み始めた。
天乃が開け方を間違えてこぼしたりしないか少し不安だったけれど、杞憂だったらしい。
私の視線に気付いたのか、天乃は少しムッとした様子で私を見てくる。
「なんですか。失敗すると思ってたんですか?」
「ちょっとだけね。上手上手」
「子供扱いしないでください。一歳しか違わないのに」
むくれる天乃が可愛くてくすくす笑うと、彼女はますます不機嫌そうな顔になった。
「先輩のその笑顔は、ムカつきます。今日も明日も、見たくないです」
「んー、そっか」
「そっかじゃないです。反発してくださいよ」
天乃はラムネを一気に飲み干してから、だん、と音を立てて瓶をベンチに置いた。
私はまだラムネを飲んでいたけれど、天乃が動き出す気配を感じてそっと瓶を置く。
それを見て一瞬天乃は眉を顰めて、でもすぐに私に顔を近づけてきた。
「先輩のその顔、すごく嫌です。すごくすごく嫌です。私が何しても変わらないその顔。歪めたくなります」
「私は……」
「喋らないでください。どうせ、何を言うかなんてわかってます。……先輩。私はここにいるんです。私がいなくてもできる顔ばっかり、しないでください」
天乃はそのまま、私の胸に頭をくっつけてくる。
天乃は私のことを、いつでも表情の変わらない能面人間だと思っているんだろうか。ぐにぐにと頬を触って、変な表情にしてみる。
でもこれは多分、天乃が求めている表情ではないのだろう。
ここにいるのは、天乃だ。他の誰でもない。
そんなのわかっている。私は他の誰かじゃなくて、天乃と姉妹になりたいと思っている。もっと仲良くなりたいと思っている。
それをまだ、証明できていなかったのかもしれない。
「天乃、顔上げて」
私が言っても、天乃が動く気配はない。それなら仕方がないかと思っていると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
私はそっと彼女の顎に手を当てて、その柔らかい頬に口づけをした。
唇を離して、今度はおでこ同士をくっつける。至近距離で見る彼女の瞳は、ラムネ瓶の中のビー玉と同じくらい……いや、それよりも綺麗だった。
凪いだ海のようだとでも言えばいいんだろうか。
その瞳はいつも、濁りなく私を見ている。
「わかってるよ。わかってるつもり。天乃はここにいる。私もここにいる。私は、天乃だけのお姉ちゃんだよ」
「……でも」
天乃は微かに視線を逸らしてから、そっと私の胸を押した。
「……先輩なんて、牛です」
「ダンゴムシじゃないの?」
「ダンゴムシで、牛で、キモキモのキモみです」
絞り出すような声でそう言って、天乃は立ち上がる。
群青色に染まり出した空が、天乃の頭の向こうに広がっていた。
天乃は空になった瓶を手にして歩き出す。
ころん、とビー玉が瓶にぶつかって音を立てた。
その音が、空に広がる厚い雲が、どうしようもなく夏だった。
後輩と過ごす二度目の夏。妹と過ごす、最初の夏。夏自体に意味なんてないけれど、天乃と過ごす夏は特別なように思えた。
鬱陶しそうに顰められた顔。綺麗な形の眉。透明な瞳。
後輩でも妹でも天乃は変わらないように見える。
だけど中身はきっと、そのままではないのだと思う。私もそうだ。
自分の心をそっくりそのまま相手に転送することはできないし、心の距離が近づいていのかも、あまりよくわからない。
一歩踏み出した先が前なのか、後ろなのか。
わからないまま天乃を見た。
天乃も私を見ている。
視線はぶつかったか、交わったか。多分、どっちもだ。
「明日もあなたの笑顔が見たくない。先輩に送る言葉はそれだけです」
「天乃」
「先、帰ってますから。また後で。……お姉ちゃん」
「……え」
天乃は顔を真っ赤にして走り去っていく。
ダンゴムシで、牛で、お姉ちゃん。
ちょっとは天乃と仲良くなれたのかな。どんどん天乃の中の私が変な感じになっている気がするけど。
「もお」
ダンゴムシの声はわからないから牛みたいに鳴いてみた。
だからって、何も起こらなかったけれど。
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