藤田桜

1


 日干し煉瓦でできた邸宅の壁をつたいながら、コイレルは中の様子を窺った。未だ幼く小さな体をめいいっぱいに使って窓の辺りまでよじ登る。建物の内部は三つに区切られているらしい。西の部屋では肩に毛布を羽織った老婆がうつらうつらとしていた。丸々肥っていて、ときおり唸るような鼾が聞こえる。一方、中央の部屋には誰もいなかった。昼間は礼拝堂として使われていた場所だ。本来なら客間に当たる空間なのだろう。となると、お目当てのは東側の部屋にいるはずだ。

 背中にじっと刺すような視線を感じて振り向くと、空には大きな瞳が浮かんでいる。今ではもう見慣れた景色だ。コイレルはさほど怖気づいた様子もなく囁いた。

「しーっ、だからね。大人に見つかったら追い出されちゃうのよ」

 不意に、建物の廊下の方からさっ、さっ、と床が擦れるような音が聞こえた。慌てて声を潜めると、コイレルが履いているものとさして変わらない、質素なリャマ革のサンダルが立てた足音だと分かる。おおかたこの家で働いている召使いだろう。──近い。まだいる。もう少し。今だ、離れた! 炊事場の窓から忍び込むと、コイレルはつぶてのように駆け抜けた。地面を包むように足の裏を着けて、均等に蹴って、足音を消したまま。

 焦りのせいか、天井と壁が迫ってくるように思えた。窄まった視界の中、曲がり角で一旦足を止める。そっと息を整えて、もう一度ようすを窺った。大丈夫、そのまま進もう。夕暮れどきで暗かったのもあって、洞窟の中にいるような気分だった。東の部屋の入り口が見えた途端転がるように駆け込むと、中にいた少年と目が合った。

 コイレルは大きく息を吸い込んだ。そして、表情に希望と喜びを滲ませて、告げる。

 ──わたし、あなたとお友達になりにきたの。


 コイレルが初めて「現身さま」の声を聞いたのは、父に言われて礼拝に着いて行ったときのことである。大人たちの噂するところによると現身さまの目は、空に浮かぶ「神の瞳ウィラクチャプ・ニャウィン」にそっくりなのだそうだ。コイレルは必死に背伸びして、大人たちの背中の隙間にその人物の姿を探そうとしたが徒労に終わった。もう、勝手に帰ってしまおうかしら。そんなことを考え始めていたとき。

 音楽が始まった。幼いコイレルの興味は一気に祭壇の方へと引き戻される。細かく震える笛のに次第に速まっていく拍子を打つ太鼓のおと。コイレルは目を輝かせた。またぴょんぴょんと飛び跳ねて、少しでも前方が良く見えるように試みる。──あ! 一瞬だけ人の波が割れて見えたものは、自分より少し年上くらいの少年の姿だった。瞳を見たかったのに、肝心なときに横を向いていて見えなかったのが心残りである。左右にいたのは楽団だろうか? 音楽を奏でているのは彼らなのだろうか?

 そう考えていると、演奏の中に人間の声が混ざっているのに気が付いた。とてもきれいな声だ。夜空のように澄んでいて、優しい感じがする。「ねえお父様、あれはだれが歌っているの?」「現身さまだ」コイレルはまた背伸びをして、飛び跳ねて、前の方を見ようと躍起になった。結局、現身さまの姿を見ることは叶わなかったが。

 父親に手を引かれて日干し煉瓦の礼拝所を後にしながら、コイレルはどうしたらあの声の主に会えるだろうと考えた。もっとあの声が聴きたい。それに、友達になれればきっと楽しいだろう。──どうすればいいのかしら。答えは数秒も経たぬうちに出た。大人たちがいないうちに忍びこんで会いに行けばいいのだと。子供らしい、無邪気で恐れ知らずの決断だった。

「ねえお父様」

「なんだ」

「現身さまはあそこでどんな風に暮らしているの。お家に帰れなくて、寂しいんじゃないかしら」

「育ての親の、マゥカ・ハトゥン様と一緒に暮らしていらっしゃるそうだ。召使いも一人いるから、身の回りの世話に困ることはないらしいぞ」

 父親はコイレルの質問の意図とは少し違う答えを返した。コイレルは小さく頬を膨らませながら、

「現身さまも、夜は眠ったりするのかしら」

「それは、するだろうよ」

 決めた。今日の夕暮れに忍びこもう。まだ現身さまがお眠りにならないうちに、でも暗くて辺りが良く見えない頃に。コイレルは時が来るまで大人しく家の手伝いをしていた。干した馬鈴薯を水に浸け、織物をし、洗い物を庭に干した。

 空が赤くなって来たのを確かめると、庭からこっそりと抜け出す。人通りの少ない通りを、コイレルはた、た、た、と弾む心と同じ速度で駆けた。現身さまはおみやげに持ったこのきれいな石を喜んでくれるかしらと頬を緩ませる。

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