かえるからね

松ヶ崎稲草

第1話 1-1.目覚めた瞬間

 目覚めた瞬間、視野に入るのは、天井の木目に描かれた、いや、誰も描いてはいないが、自然と歳月によって出上がった模様で、意味などないことは分かっているが、じっと見ていると、渦巻にも竜巻にも見えるそれは何かを訴え掛けているように思える。


 子供の頃は、よりリアルに感じた。

 渦巻、竜巻どころか、動物の姿や人の顔にも見えたかと思うと一瞬で消え、竜から虎になったりと変幻自在で、狭い実家の二段ベッドの二階に寝起きしていた僕は目覚めた時頭上すぐにあって手も届いてしまう天井の木目を見ることを恐れていた。

 その割に、毎朝必ず見てしまう。

 と言うよりは、自分が見られている気がして、襲い掛かって来ないか確かめる、といった感じで、木目に描かれた世界が現実で、普段接している親や友達は幻で、幻の現実が天井の木目にあるほんとうの世界から見下ろされているように思えた。


 二度寝、三度寝の原因となっている夢の世界への執着は、天井のリアルな木目模様を凝視しているうちに雲散霧消していき、醒めた気持ちで、ついさっきまで渦中にいた夢の一部始終を振り返る。


 夢の中での僕は、当たり前のようにおとなしい小学生であったり、留年しないかと心配している高校生だったりして、その時々の状況の中にあって悩んだり苦しんだりしている。


 小学生の僕は運動神経が鈍く、他のみんなが当たり前にできるボール投げなどの運動が上手くできず、練習してもできるようにならず、人に教わると教える人を呆れさせ怒らせ怒鳴られ時には蹴られ殴られ、悔しく、悩み苦しんでいた。


 高校生になって、運動に加えて勉強もできなくなり、分からなくなり、テストは赤点の連続で、進級できるか、卒業できるか、と怯えた。


 その頃の記憶が脳内にこびりついているようで、よく夢に出てくる。人から低く見られている、という意識が僕の中にしつこく巣食っている。


 夢を夢だと思い、夢の世界に別れを告げ、さあ現実の朝が始まる、と自分に言い聞かせる。現実の朝は、これから出勤だ。


 今の仕事には一ヶ月前から就いている。

 老人施設での介護の仕事だが、まだ一ヶ月なので、当然、慣れていない。

 訳が分からずバタバタしているうちに、日々が過ぎて行く。


 これから仕事か、と思うと、憂鬱でならない。もっと寝ていたい。しかし、そう言う訳にも行かない。妻が居る。自分が働いて、養って行かなくてはならない。


 あまり時間ぎりぎりだとますます行くことがしんどくなるので、意を決して起きることにする。

 そう思ってから実際に身を起こすまで時間が掛かる。そして今は、冬だ。

 こういう時にいちいち暖房をつけないのは、習い性となっている。

 自分の意識に暖房をつける。身体を、心で温める。

 いわゆる気合いだが、なかなかしんどいものがある。


 ようやく、布団から抜け出す。朝はみんなつらいのだ、仕事へ行くことはみんなきっとだるいのだ、と毎朝ロッカーで職員どうしで交わされる、今日、大丈夫かな、とか、不安やな、とか、無事終われば良いな、早く帰りたいな、などといった会話の内容を思い出す。

 ベテラン職員でも、出勤前は不安になるらしい。老人施設で入所老人の容態急変や転倒事故は日常茶飯事で、対応を誤ると訴えられたり懲戒解雇になったりするリスクを常に抱えている。実際にそうなる例は少ないが、毎日のように、必ず全国どこかの施設でそういう事例が起こっているらしい。


 出勤して、今日は入浴者の更衣をひたすら、する。

 朝食後、ホールに居る車椅子の老人達を次々と脱衣場へ連れて行き、服を脱がせる。

 脱がせ方にも手早いやり方があり、少し手間取るとモタモタとしてしまい、後が詰まってしまう。

 脱衣場の奥の浴室には入浴介助担当の先輩職員がエプロン姿で居る。次の用意が出来ていないと、睨まれる。


 看護師と二人で更衣をするのだが、今日ペアを組む看護師はコワい人ではなく入職同期の鶴田さんだったので、良かった。 誰と組むかによってもスムーズさが変わってくる。


 ホールと脱衣場を頻繁に往復していると、年は若いが先輩の大山さんが、回りの人達はあせらせようとしてますけど、あせらずにがんばって下さい、と声を掛けてくれる。

 この大山さんはいつも利用者にたくさん声掛けをしながらのんびりと、遊んでいるような感じで接していて、他の多くの職員とは仕事のやり方がかなり違う。

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