告天子先生は安楽椅子に座りたい
如月姫蝶
第1話 一番隊が挑むのは……
お仕事お仕事やで!——という日々が続き、近頃、美容院にはとんとご無沙汰だ。
仕上げは伊達眼鏡だ。救急室というのは、患者が何を飛ばしてくるかわからない場所なので、目を保護しておくことが望ましい。状況に応じて、より高性能な医療用ゴーグルにチェンジするのだ。
「今夜の一番隊の皆さん、お揃いでっか?」
最年長の
ここ京都市立医科大学附属病院には、夜間の救急室を切り盛りする医師たちのことを「一番隊」と称する慣わしがあるのだ。かの新選組で、沖田総司が組長を務めたとされる一番隊に因んだネーミングである。
「高原先生」
「はい」
野田の点呼に、告天子は、気負うこと無く挙手した。彼女は、今夜の顔触れの中では紅一点で、医師経験年数三年目という最若手でもある。
「
「はい!」
館林
他にも何名かのメンバーがいるが、今夜の一番隊の顔触れは、総じて若い。最年長の野田でさえ、告天子よりも五年ばかりキャリアが長いだけなのである。
それは実は、新選組が活躍した幕末とは比較にならぬほど大昔の、恐竜絶滅にも比肩しうるディザスターとして語り継がれる、医師大量退職事件に端を発する事態であり……
救急車が到着したとの報せが入り、どうあれ、一番隊は躍動した。
かつて新選組は、敵対勢力からは狼のごとく恐れられたというが、今宵の一番隊の医師たちも、京の病魔を狩るべく狼と化すのである。
「寄って
救急車から降り立ったのは、身なりは良いものの、やたらと猛々しいマダムだった。狼が尻尾を巻いて逃げ出し、ティラノサウルスも跨いで通り過ぎるのではないかというほどの迫力だった。
ただし、彼女は患者ではなく、その付き添いだ。それでいて、患者たる義理の娘が救急室へと運び込まれるのを忌々しげに見送りながら、「どうせ仮病や!」などと声を荒げたのだった。
マダムは、夫亡き後、老舗の呉服店を切り盛りして、一人息子を育て上げた。息子の妻とは不仲であるが、彼女が初めて妊娠して安定期を迎えたため、一応の祝いとして、本日、京都市内の高級料亭にて一席設けたのである。ところが、東京にてベンチャー企業の社長と化した息子は、急な仕事を理由に当日になってキャンセル。妊婦もまた、義母と一対一で会食するうちに体調の不良を訴えて倒れ伏してしまったのだ。
「なるほどなるほど、お母様の面子が丸潰れやと。それはお腹立ちでしょう。
せやけど、仮病を証明するには、消去法でいかなあきません。患者さんは、元は健康な方ですか?」
マダムに正対したのは、飄々とした物言いの、眼鏡の女医だった。マダムは、不仲の嫁と同年代であろう彼女を見返して、二度ほど瞬きした。
「いやあ?……妊娠した途端に糖尿病やら高血圧やらになって……不健康な女や!」
それを知ってて、料亭でご馳走しはったんですか——というツッコミは、告天子は、心の内に留めておいた。
「私は、息子には、せめて健康な女性と結婚しなさい
マダムは、どこまでも荒ぶる一方で、うんうんと頷く告天子のことを、嫁の悪口に付き合ってくれる味方であると認識したらしかった。
「先生、聞いて下さい! あの女には、元から持病があったんや! あれやあれ……ここまで出てるんやけど……そや! ABCいう病気です!」
「すごく息苦しくて……先生、どうか赤ちゃんを……」
救急室のベッドにて、患者——
彼女は、妊娠六ヶ月のいわゆる安定期。初めての妊娠だというが、未だ二十代であり、妊婦として高齢なわけでは全く無い。心臓や肺の機能を簡易的に示すバイタルサインも、妊婦であることを考慮すればまあ落ち着いている。確かに呼吸数は多いのだが、血中酸素飽和度も九十五パーセントあり、呼吸により十分な酸素を取り込めていることを示していた。
ストレスフルな環境下で発生した呼吸困難感……一時的なメンタルの不調とちゃうんかい。
未だ口には出さねど、それが、野田の見立てだった。彼は既婚者であり、いわゆる「嫁姑」が拗れた惨状を、一例であれば症例報告できる身の上だった。
野田は、同僚らに目配せした。
一時的なメンタルの不調と判定する前に、やらねばならない検査の諸々がある。美絵は東京都在住であり、この病院を受診するのは初めてでもあるし、あまり予断を持つのはよろしくない。
それは、野田らが、「一大事ではない」ことを証明すべく、採血などを手際良く行なっていた時のことだった。
「
気付いた桜児が、驚きの声を張り上げた。
正常範囲内の95だったものが、みるみる80を切るまでに低下したのだ。それは、重度の肺炎さながらに低い値だった。
「小室さん! 深呼吸しましょう!」
野田は、妊婦に呼び掛けたが、反応は無かった。五秒前まで「赤ちゃんを……」と繰り返していた彼女が、今や沈黙して意識を失っていた。まさに急変であり、一大事だった。
「
桜児は、さらなる急を告げねばならなかった。心肺停止とは、もはや生死の境目の状態である。
バイタルサインのモニターが、けたたましく一本調子の音を奏でた。
「ヘパリンの大量投与を! その患者さんには、
凛とした声が響いた。小柄な眼鏡の女医が、実に有意義な情報をゲットして駆け込んできたのである。
「なるほど! さては
野田は即座に応じた。そこは
ヘパリンとは、血の塊を溶かすにはうってつけの薬剤なのだった。
「いよっ! 今夜の組長!」
その夜の一番隊は幸運だった。真夜中を過ぎた頃、ちょっとしたコーヒーブレイクの時間を持てたからである。
野田は早速、告天子に拍手とともに、概ね「本日の主役」といった意味合いの賛辞を贈ったのだった。それは言わずもがな、新撰組の沖田総司が、一番隊の組長を務めていたことに由来する。
「それにしても、組長いうたら、な〜んやおっかないな! ヤで始まる方々みたいやんけ!」
野田は、機嫌を良くして、つい軽口を叩いただけである。しかし、告天子の親の稼業を知る桜児は、ドキリとした。
「いえいえ」
他ならぬ告天子は、どこか飄々として、伊達眼鏡の前で小刻みに手を振った。
小室美絵は蘇生した。
告天子の提案通りに、ヘパリンを投与しつつ心肺蘇生を行ったところ、劇的に奏功したのである。
もちろん、入院して様子を見ることとなり、産婦人科医に後を託したのだが、患者本人に目立った後遺症は無く、妊娠も継続できそうとのことだった。
「SLEなら、顔に描いといてほしかったわ〜」
野田が大きく伸びをしながら放った一言は、少々不謹慎に聞こえるかもしれない。しかし、妊婦の顔面に、SLEにはありがちな皮膚症状が一切出ていなかったことは事実である。ゆえに、一番隊の面々もその持病に気付かず、告天子があのマダムから入手した情報こそが、蘇生術の成功に重要な役割を果たしたのだ。
「高原先生は、あないな人からでも、ちゃ〜んと情報を引出せるんが偉いなあ!」
野田は、後輩のことは褒めて伸ばす主義である。そして、彼よりも彼女のほうが、感情的だったり要領を得ない話し方をする人物からの情報の聴取に長けていることを率直に認めているのだった。
「ああ、ええ流れやから白状させてもらいますね」
告天子は、うふふと笑みを零した。
「あのマダムは、患者さんの持病のことを、ABCやと言い切ってはりました。けど、そないな病名、あらしまへんし、想定してた選択肢の中から、SLEに決め打ちしたんは、私です」
医療従事者やあらへんお人が、病名なんかをダイナミックに間違えはるんは、ようあることですし、何より、心肺停止の患者さんに残された時間は僅かやから、ここは、決め打ちで行くしか無い局面やなあ思て——などと、今夜の組長は、やんごとなき笑みを湛えて付け加えたのだった。
野田は、暫しフリーズした。
「え……何それ……初めて聞いたで」
「はい。今初めて言いましたよって。自信はあったんですけど、決め打ちが当たって、勝てば官軍! みたいにええ気分です」
勝ちゃあええんかい! まあ、せやな、そうかもしれへんけれども——
もしも決め打ちが外れてたら、どないするつもりやったんや……
一番隊の男性陣の間に、途端に微妙な空気が漂う。
野田の軽口に気を揉んでいた桜児すら、その空気に当てられそうだった。
皆が彼女を注視する中、告天子は、伊達眼鏡を外して拭い始めたのである。
「あ、ついでにもう一つ。これは独り言ですよって。
京都市内のとある地域で、地価の上昇を防いでるんは、拘置所と私の自宅やなんて俗説があるんです。地酒がおいしゅうて、かつて鳥羽・伏見の戦いの舞台にもなった界隈のお話ですけど。拘置所と並び称されるやなんて、光栄の至りやわ〜。
なるほどなるほど、組長いうんは、歌劇団にも町内会にも存在する役職ですけど、カタギのお人にとっては、やっぱり不穏な響きなんですか……」
告天子が眼鏡を外したせいで、その長い睫毛が戦慄くのが、桜児からはよく見えた。
彼は、勝手に胸を締め付けられるような思いを味わったが、どうすれば良いのかなんてわからなかった。
唯一つだけ言えることは、子供には親の職業なぞ選べないということである。
そして、さすがの野田も、告天子の物言いに引っ掛かりを覚えた時だった。
新たな救急車の到来が、ささやかなコーヒーブレイクの終わりを告げたのだった。
「誠に申し訳ございません。大使ともあろう者が、女性に対して失礼な発言を連発しておりまして……」
通訳だという男性は日本人で、額の汗を拭いつつ頭を下げた。
「なるほどなるほど。でも、一言も聞き取れてへんので、私は今のところノーダメージですよって」
告天子は、伊達眼鏡の前で、小刻みに手を振って見せたのだった。
相手は、日本語も英語も話せるらしいが、今のところ母国語一本槍なのである。
新たな患者は、北欧某国の駐日大使たる中年男性だった。なんでも、お忍びで祇園で遊んだところ、思いがけず酷く酔い潰れて、嘔吐だの失禁だのしてしまったのだという。
一通りの検査を行ったが、急性アルコール中毒、それ以上それ以下の何物でもなかろう。お決まりの点滴を投与して、心身共に落ち着いてもらうより他に無い。ただし、非常に大柄な男性であるため、点滴の量は調節せねばならないのだった。
告天子が、粛々と作業に勤しんでいたところ、患者がまた何か吐き捨てるように言った。
「もしかして……小柄な日本人に対して失礼なことでも
「え!? やはりおわかりなんですか!」
「いえいえ、なんとなくそうかな
図星だったらしく通訳は慌て、告天子は「なんとなく」と誤魔化したが、それは実のところあからさまだった。
日本的なサイズのベッドから、大柄な大使の手やら足やらが、さんざんはみ出しているのである。
そんな大使が、やおら身を起こした。
(来よるな)
彼の目を見て、告天子は直感した。
果たして、彼は、握り拳で女医に殴り掛かったのである。
「我が国の民を搾取することは断じて許さない!」
そんな意味合いのことを喚きながら。今度は英語だったので、告天子にも聞き取れたのだ。
そして、彼女は、ひらりと回避したのである。救急室というのは、患者が何を飛ばしてくるかわからない場所なので、常に用心しているし、親の教育方針によりそれなりに護身術を学んだお陰でもあるのだった。
「大使!」
二発目を繰り出そうとした彼を、通訳が身を挺して止めに入る。
他の患者を診ていた桜児や野田も、駆け付けて巨人に群がってくれたのだった。
その間に、小柄な女医はするすると移動して、やるべきことを行った。
大使の左腕の点滴ルートは確保されたままだったから、そこに、対暴れん坊用の鎮静剤を追加したのである。
暴れん坊大使は、程無くベッド上にて擱座したのだった。
まったく、「搾取」がどうのと言っていたが、仮に祇園でぼったくられたというのであれば、当事者間で解決に向けて努力しておくれやす。
巨人は横たわり、通訳は謝り倒した。
男医たちは、それぞれの患者の元へと戻った。
しかし実は、現場には、もう一人の男が存在したのである。
彼は、大学病院の事務長——
渡辺は、救急室に出現したかと思うと、まずは大使の通訳と強引に名刺を交換した。その後、大使が暴れ出すと、ベッドのそばにあったエコーなど、高価な医療機器を暴力沙汰から遠ざける作業に専念したのである。
やがて、状況が一段落した時、渡辺は、チクチクとした視線を感じたらしい。
「なんやなんや!」
彼は、端から喧嘩越しで、医師たちを睨み付けた。その上で、告天子に人差し指を突き付けたのである。
「あんた、避けたな、避けてたやろ! 儂はちゃ〜んと見てたんやからな!
実は殴られましたなんて、労災申請しても無駄やさかい、覚えとけよ!」
どうにも的外れな恫喝を行ってから、渡辺は、ふんぞり返って立ち去ったのである。
渡辺はあくまで事務長であって、医療従事者の資格は持っていない。経営努力と称して、高価な医療機器から消耗品の文房具に至るまで大切に取り扱うのだが、医師ら医療従事者というものを、物品以下の存在として見下しているらしい。
「
彼が立ち去った後の救急室で、野田が、押し殺し切れぬ怨嗟の声を上げた。低い地鳴りのようなそれに、居合わせた医師も看護師も、大使の通訳すらも、異を唱えることはしなかった。
「高原先生、ほんまに大丈夫やった?」
桜児は、彼女の伊達眼鏡を覗き込んで声を掛けた。
「うん。加勢してくれて、おおきに。私、子供の頃から殺気には敏感やし、親に言われて護身術も
桜児は以前、一年後輩である告天子に、「年も近いし、僕にはタメ口でええよ」と伝えたことがある。告天子の口調は、それに応じてのものだった。
「僕のことは頼りにしてや! 親に言われて、護身術だけやのうて、逮捕術まで身に付けてるんやから!」
「……せやろね」
桜児は勢い込んだのだが、告天子の反応はむしろ素っ気無かった。
彼は、冷や水でも浴びせられたように肩を落として、妻に熱湯をぶっ掛けられたという男性の治療へと戻ったのである。
野田も野田で、桜児の肩を二度ほど叩いてから、今なお第二次世界大戦を戦い続けていると信じ込んでいる、認知症にして骨粗鬆症の老人の元へと戻ったのだった。「大戦いうたら、応仁の乱で決まりやないけ!」などと、京都のご当地ギャグを
「告天子ちゃんはね、なかなか変な子なんですよ。なんと、視力が2.0もあるんです。信じられますか? 普通、医学部目指して受験勉強する時点で、視力なんてガタ落ちするやないですか。
でね、僕は、告天子ちゃんに訊いてみたんです。どないして医者になったんやって……
そしたら彼女、一族郎党のことを思うて、一生懸命頑張ったらなれたねん、なんて言うんですよ?
なんやそれ、武家の棟梁みたいな言い方やね、お武家さんの子孫なん?……
そしたら、告天子ちゃんは、眉間に皺を寄せながら、そっぽを向いたんです。
武家やないけど、昔は武闘派やったらしいって……」
「つまるところ、武家やのうて、ヤの字の組長さんのお嬢さんやったと」
「はい……」
桜児は、首肯したまま前傾して、店のテーブルに突っ伏したのである。
マダムABCやら暴れん坊大使やらと邂逅した勤務の数日後、桜児は、野田に誘われて、二人で飲むことになったのである。そろそろアルコールが回ったらしく、本人の不在をいいことに、告天子のことをちゃん付けで呼び始めた桜児である。
「告天子ちゃんの自宅は、界隈では『シン・伏見城』なんて呼ばれてます。城というより要塞みたいなお屋敷ですよ〜……」
「知らんままやったら、いつか地雷を踏み抜いてたかもしれへんな。情報提供に感謝するわ、館林先生」
野田は、神妙な表情でシシャモを咀嚼したのだった。
「しかし、そうなると……きみら、こってこてのロミオとジュリエットやな」
野田は、桜児の父の職業なら、以前から知っている。警察官——それも京都府警本部長なのである。息子に警察を象徴する花の名を冠するほど、己れの職業に誇りを持つ人物でもあるらしい。
そして、告天子も、その辺りを承知しているらしかった。
桜児は、声を上げて泣き始めた。
「ロミオとジュリエットなんやったら……せめて両思いになりたい!」
「いやいや、彼女かて、気ぃ
野田は、後輩を慰めるつもりで言ったのだが、その泣き上戸に拍車を掛けることになってしまった。
「まあまあまあ……そや、こっちからも情報提供させて〜な。実は、われらが救急医学教室に、新しい教授がやって来るらしいで!」
大学病院の救急室を主戦場とする医師たちは、大学の救急医学教室に所属している。しかし、その教授の椅子は長らく空席だったのである。
とかく医療従事者の人件費を削減しようとする経営陣と対立して、何年かに一度は医師の大量退職が発生する。教授の不在というのも、そこから派生した事態だったのだ。
「え……どんな人が来るんですか?」
桜児は、しゃくりあげながらも興味を示した。
「なんや、アメリカ帰りで、向こうでは、銃創の治療をみっちりとやり込んだエキスパートのオッチャンらしいで」
「銃創?」
桜児は、怪訝な顔つきとなる。
彼は、医師になって四年目だ。今思い返せば、彼が就職して以来、猟銃で誤射された被害者が大学病院に運び込まれた事例が一件あったはずだ。しかし、その被害者は、救急室を経由すること無く、法医学教室へと直行した。
銃創のエキスパートが救急室に降臨したところで、一体全体どれほどの需要があるのだろうか……
どうあれ、七月一日付で、新教授は任命されるらしかった。
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