創業の動機

佐伯 安奈

(上)

 私はある研究室で、様々な企業がなぜその会社を立ち上げたのかアンケートを取り、収集するというプロジェクトに携わっている。会社とは大抵、何もないところから始めたもので、当初は苦労も多かったはずである。そうまでしてなぜ起業をしたのか。これは、調査を通じ、その創業者ならではの奥深い思いや理念を取り出して、起業家なる現代の生き物の思考形態を纏め、検証しようというプロジェクトなのだ。

 アンケートはインターネット上で特定の業種の名前を検索し(例えば「飲食」とか「運送」とか「医療機器」とか「カメラ」とか)、出力されたものの中から無作為に選んだところへ依頼する。

 今回は「印刷」と検索し、ヒットした膨大な企業の中から、とある会社にアンケートを依頼したところ、非常に興味深い「創業の動機」を入手することができた。当然のことながらこのような場所でそれを公開することは、本来認められていない。だが微妙に我々の調査の趣旨とズレてはいるもののとても面白い内容だったので、研究室上層部の同意のもと、社名はじめセンシティブな情報については隠し、肝心の「動機」の部分だけを紹介することにした。執筆者である創業者の文体も独特の味を持つものであり、抄録ではなく全文をそのまま掲載する。また本文を読んでもらえれば理解できるだろうが、このような場で今回の「動機」を公開することは、この創業者の意向にもある程度沿うものだろうと考える。



 会社名:○○リゾテクト

 資本金:○○○○千円

 本社所在地:東京都○○区西○○1-○-3

第一○○ビル306-○号室

 創業年:20○○年

 社員数:○6人


 創業の動機について

 執筆者:弊社代表取締役

 ○岡○○


 この度は、かような興味あるアンケート調査のサンプルとして弊社を選出してくださり、深い光栄の念にうたれております。弊社は印刷業というあまり注目されることのない業種の中で、さらに特殊な状況でのみ人目を引く種類の業務に取り組んでおります。そのため社会的な知名度も乏しく、砕けて言うならばPRの機会というものがなかなか得られないという弱点を抱えております。そのため、今回のようなアンケートにお答えすることは、弊社の社会的に意義あると信ずる業務内容を世間の方々に知っていただく好機に繋がると考え、稚拙な筆を苦心して動かしながら、回答文の作成を進めている次第です。

 一口に印刷業と申しましても、様々な形態がございます。書籍やポスターやカレンダーの印刷、広告印刷や商品ラベルの印刷がもっともよく知られているものでありましょうが、ご家庭用の誕生日カードや年賀状の印刷といった、日常生活の微に入り細を穿った側面にまで印刷業の仕事は浸透しているといっていいでしょう。もちろん最近では大抵の家庭にはパソコンとプリンターが設置されており、また年賀状をやめるという方も増えていらっしゃるため、家庭向けの印刷に関した業務の展開は厳しいところではあります。しかし、僭越ながら個人のご家庭で印刷に関連した全てのカテゴリーがカバーできる訳ではないこともまた確かなことであります。そして家庭に留まらず、やはりパソコンとプリンターが当たり前のように備え付けられている企業や店舗に於いても、それらの機材が「印刷」に関わる場面をコンプリートできているとは言えないのです。

 やや回りくどくなりましたことをお詫びいたします。率直に申し上げると、私たちは、こうしたどの家庭にも企業にも小さな店舗にも必ず存在する、ある「空間」向けの印刷物を作成し、掲示のお手伝いをする事業を展開しているのです。

 その「空間」とは、トイレなのです。

 意外に思われるかもしれませんが、私にとっては長年、どうにかできないものかと陰ながら煩悶する源が、トイレにこそあったのです。

 大変尾籠びろうな話に差し掛かることをまずはお詫びいたしますが、私は生来の胃弱という痼疾を抱えております。もう学生のころからの長い付き合いとなります。私の症状に見合う薬は一応ありましたが、完治の望みは儚く、ともかくもまじめにきちんと薬を飲み続けるしかないと医師には言われてきました。小学校、中学校の時分は学校が自宅から近かったので、万が一の時にはすぐ帰ることができました。また教師も理解ある存在だったので、授業中であってもトイレに立つことはそれほど苦ではありませんでした。同級生の視線は当然意識せざるを得ませんでしたが、自分一人個室に籠ってしまえば誰に迷惑をかけるわけではないので、気持ちの上では楽でした。

 しかし高校生になり、毎日電車とバスで通学するようになると、たちまち胃弱は大きなネックとなりました。一度それらに乗ってしまえばもはやトイレは身近なものではありません。電車にはトイレがあることはありますが、基本的には限られた車両に一つしかなく、しかも一人で何十分と占有するわけにはいかないものです。さらに困ったのはバスの中です。最寄り駅から学校まで、どうしても30分はかかり、その間胃がしくしく泣き出したら私にとっては惨事です。そしてそういう時に限って薬を忘れるのです。やむを得ず青い顔をして運転手に頼み込み、途中のコンビニに停めてもらってトイレを借りたことすらありました。ところが自分のせいで他の生徒を待たせているというプレッシャーが、速やかに出すべきものを出させない場合がままあったのです。人間の体とはつくづく意思の通りには動かないものだと下腹を撫でながら痛感したことでした。無力な思いで周囲を眺めても、白い無機質な壁面が広がるばかり。その壁がぐんぐん四方に拡張し、ついに便器に腰かけた私は広大な白い砂漠に取り残されたかのように感じたものです。たまに壁に何かしら紙が貼ってあったとしても、「トイレットペーパーを持ち出すな」だの「電気を必ず消して」だのつまらない内容ばかりでした。意に沿わない腹を抱えて途方に暮れている若人を励ますようなポスターでも貼ってあればいいのに、とよく思ったものです。

 しかし今考えるとこれこそが、私にとってそもそもの「創業の動機」と呼べるものだったのです。

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