出来事を悟り、捉えるとは。
中筒ユリナ
第1話 見に起こる出来事から。
もう、何作目だろうか。
思いつくかのように、いろいろと書いてきた私だが。
作者である私自身の事を掘り下げ出し、自分自身を知る所から始まり、
そしてまた、脳裏にやってくるのだ。
まるで、次のステージへいくように。
皆様は、自分に起きる事の事象をどのように考えるだろうか。
良い事が起きれば嬉しいわけで。
それを何も考えず素直に受け取り、只々嬉しい喜びを味わうだろう。
中にはその事象においては、周りに感謝したりもあるのではないだろうか。
しかし、真逆の良くない事が起こった時には、「なぜ?」と言う疑問がわいたり。
私の知る人は、
「何か悪い事をしたから、こうなったのかな。」
と言う人が必ず何人かはいた。
人それぞれ物事に対する味方はあり、捉え方も様々と言えるだろう。
私は自分自身の内面は、文章にしながら、ある程度紐を解いてきた。
また、自分が生まれてきた意味などに繋がるようなことも。
全てが解ったわけではないものの。
一歩近づけたのではないかと、考えている。
さて、そんな私だが、中学生だったか、小学生も高学年くらいだったか、
よく、考える事があった。
それが、「事の起こり」である。
「なぜ、自分自身にこんな事が起こるのか?」と言う疑問。
何か意味があるのか?
どう考えろと?
私は何かがおこった時に真っ先に
「神様は、どう考えろと言われるのだろう。」そんな事を思ったものだ。
では、ある時怪我や、病にかかったとしよう。
私は入院、手術の経験がある。
もう、社会人だった為、仕事はできず、大変だった。
誰だって、突然の不運に見舞われたりはあるだろう。
私はその時に起こる事象は、必ず意味があると考えている。
自分自身に対するメッセージだったり、学びの時間だったりだ。
私の場合は、入院先での目にしてきた事からいろいろと考えさせられたのだ。手術からリハビリがあり、その間、様々な年配の方々とお話をした。
また、他所の大部屋の方々の姿を見せてもらい、感じさせられたのだ。
「最期まで生きるとは」を
ご年配でも、ある程度動けて、会話ができるのは有り難い事だが。
中には、会話は勿論できず、そればかりか、食べ物を口からは入れることが出来ない。そんな方もいる。
私はその姿を見ながら、「見て学べ」と言われているように思えてならなかった。
人の一生とは、これ程までに辛いものなのかと。
このような姿になっても、与えられた命とは、最期まで生きなくてはならないものなのを。
いったい、なぜこんな姿にになってまでも生きなければならないのか。
恐らくは、私にとっての最大の課題であり、学びなのだろう。
なぜなら、「早くこの世を去りたい」と考えた事が一時期あったからなのである。
人の一生を人生の先輩方々から見せてもらい、生きる事を考えるようになった。なぜ生きなければならないのかだ。
「生きたい」「長生きしたい」このような事を抱いていれば、また違った事象が目の前に現れたのだろうか?
それは、わからないが、
私は逆なわけだ。
「もう、十分だ。」「これ以上、どう頑張って生きろと言うのか?」
「これ以上、この世界から何を学べと言うのか?」
などなど、思い返すといろんな不平が出てくるわけだ。
そんな私に起こったこの事は、
まず、手術をした事で自由だった身体が全く動かない事を体感する。
そして、動けるようになる為の努力をする。これが、リハビリにあたる。
そして、ある程度動けるようになってきた時に、人生の先輩の姿をしっかり見て学ぶ。
この人生の先輩が、1番ポイントではないかと考えている。これが、同じ年代やら、子供では意味がないのだ。
年配と言う今までご自分の人生を歩き、終演期を迎えている方々の姿こそ私に学ばせると言う、この
「最期まで生きるとは」
この事に繋がるのだ。
未だに私はあの時の自分自身に起こったことは、これを学ばせる為のものだと考えている。
では、次回、「学ぶ」だけではない自分自身に起こる事を考えて見よう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。