くちなしの姫君と銀白の龍その七
夜までの時間は長かった。
日が沈み、屋敷のもの達が操られるように眠りにつくと、姫君は渡殿に出て今様を歌った。朱殷との出逢いをもたらした歌声は切々として、夜空の向こうへと伸びてゆく。
朱殷はそれを聴いて、逸る心を抑えもせずに姫君のもとへと降り立った。
「朱殷……!」
姫君が渡殿を降りて駆け寄る。朱殷は白煙をまとわせて人の姿に変化した。
「清……逢いたかった。共にあれない時は長すぎて息が詰まりそうだった」
「私もよ……けれど、逢えた……逢えない辛さは朱殷の姿を見て泡と消えたわ……」
「……昼間、天界の泉から清を見ていた……何度降りてゆこうと思ったか……清の恋しい顔を見るたび、突き上げられる衝動を覚えた」
「朱殷……私は平気よ。あなたがくれた物があるわ……あなたを想わせてくれる……」
姫君は鱗を手に、朱殷にかざして見せた。月明かりに輝くそれは、どのような精巧な銀細工よりもまばゆく映えた。
朱殷はその手を取り、大切そうに両手に押し包んだ。
「清……せめて共にあるときは、私は清のためだけにあるただ一人の男、清は私のためだけにあるただ一人の女だ……」
「朱殷……分け隔てるものは何もないの?」
姫君が磨きあげられた黒い碁石のような瞳で朱殷を見上げる。朱殷は陰りなく受けとめて姫君を抱き寄せた。
「愛している……魂は二人で一つだ」
姫君は朱殷の胸に頬をうずめて幸せそうに笑みを浮かべた。
「……私達は、互いが互いの半身……逢える喜びを決して忘れないわ……」
そして二人は寝所で交ぐわった。どこまでも求め合い、朝の訪れを拒むごとく時を惜しんだ。
朱殷の愛撫に姫君が敏感に反応する。二人を別個のものとする皮膚は疎ましいようでいて、交じり合う悦びをいや増さって伝えてくれる。
「あ……朱殷、もう……」
姫君が体力の限界を告げる。朱殷はくったりと横たわる姫君の体を包み込み、寝乱れた髪をすいた。
姫君が仔猫の仕草で朱殷の胸に額をすり寄せる。甘えてくるさまが愛おしく、朱殷は姫君の頭から頬を撫でてゆく。
朱殷は姫君のことだけを見て、考えていた。だから、それが目に入ったのは微かな違和感に近かった。
「……あれは……」
姫君は存在すら忘れていたようだった。何をさしているのか分からず、まばたきをする。頭をもたげ、朱殷の視線の先を緩慢な動作で追い、──ぎくりと身を固めた。
それは無惨に丸められた文だった。
今朝、姫君は疲れと気恥ずかしさから、なかなか寝所から出られずにいた。すると古参の女房が、そこに式部卿の宮からの文を持ってきた。姫君は読む気にもならず黙っていたが、女房は花の枝に結びつけられた文を広げて見せた。女房は返り言を、と思っていたようだが、他の女房が北の方からの用事を知らせにきて、文をそのままにして立ち去った。
姫君は朱殷とすごした余韻がかき消されるようで、憮然として文をくしゃくしゃに握り潰して放り投げ、その後は気にも留めていなかった。
淡い藤色の料紙が、薄闇のなかでうずくまっている。
「……あれは……文というものか?」
「違うの、朱殷。私、返り言など一度もしたことはないわ……女房が勝手に運んできて……」
姫君が慌てて言い訳をする。嫉妬も怒りも朱殷には味わわせたくなかった。他のものとの仲を疑われて呆れられたり厭われるのが怖かった。
けれど、朱殷は考え込みながら「……文か」と呟いた。何かを思いついた様子に他意は窺えなかった。
「日に一度が限度だが……顔見知りの陰陽師に式神を使わせて清に文を送ろう。寂しい思いをさせないよう。……どうだ?」
「朱殷……!」
昼間は邪気で降りてこられないと前に聞いていた。無理をさせてしまうのではないかという懸念がわいて出る。
「朱殷……嬉しいけれど、あなたの身に何かあれば、私は……」
「大丈夫だ、昼間といえど文を託すだけなら……喜んではくれぬか?」
「……あなたからの文ならば喜ぶわ……宝物が増える……想いの丈を伝え合えるのですもの」
「決まりだな。明日から文を送ろう……夜のうちでは語りきれぬ想いを綴ろう」
「朱殷……私は幸せよ……あなたに想われて、あなたを想って……」
二人は隙間なく抱き合い、唇を重ねた。朱殷の舌が姫君の唇を舐め、口内を味わう。舌を絡めとると姫君の肩がぴくりと揺れて、ためらいがちに応えてきた。その拙さがいじらしく、朱殷の情欲を煽る。
朱殷は姫君の体を思いやって欲しくなるのを抑えた。代わりに、何度も口接けを繰り返す。
そうしていると、時間はあっという間にすぎた。黒い夜空が藍色に変わる。別れのときだ。
「朝の訪れが辛い……また清と離れた一日が始まる。だが、今日からは文を交わす楽しみがある」
「ええ……待っているわ」
姫君は朱殷と渡殿に出た。朱殷が白煙に包まれて龍の姿に変化する。こんなとき、姫君は朱殷が自分とは全く別の、次元の異なる生き物なのだと知らされる。
「天界に戻ったら、すぐに文をしたためよう。清をなるべく待たせないように。文を運ぶ式神は清にしか見えぬゆえ、驚かないでくれ」
「分かったわ……朱殷、気をつけて」
姫君は身を乗り出して朱殷の顔に触れた。朱殷が姫君の触れやすいように頭を差し出す。別れのひととき、人と異形は垣根を越えて寄り添っていた。
* * *
その日、姫君は几帳の奥に籠もり式神の到来を待っていた。
式神は唐突にあらわれた。気配が感じられず、気がつくと姫君の傍らに立っている。姫君は声を上げるのをおさえ、式神を見つめた。白装束のそれは、肌も紙のように白く生気がなかった。言葉を発することもなく、ただ文を手渡してくる。
姫君は歓喜と戸惑いをない交ぜにして文を受け取った。瞬間、式神が何も残さずに霧散する。しばし呆然と式神の立っていたところを見ていた後、我に返って手にした文に視線を戻した。
純白の料紙は光沢があり、厳かで朱殷のようだった。結ぶことはせず、立文になっている。開くと、緑と清水の清涼な香りがした。
人の文字などどこで覚えたのか、朱殷の仮名は流麗で美しかった。
姫君に逢えずにいるときの切なさ、姫君の好きなところを、読んでいて頬が熱くなるほど書き連ねられている。書いていて全てが愛おしいと分かったと綴られていた。
最後に、この逢えずにいるやる瀬なさも愛するがゆえのものだと思うと、それすらもかけがえないものだと知ったと書かれていた。
姫君は渇いた土が水を欲するごとく何度も繰り返し文を読んだ。そうしているうちに、湧き水がこんこんと溢れ出るのを思わせる感覚がしてきた。胸の最奥から、熱を伴って澄んだ水が押し寄せる。泣きたいほどの感情の正体は朱殷への想いと朱殷からの想いによるとしか分からない。
姫君は文机に向かって返り言を書き始めた。桜色の料紙を用い、薄い墨で手習いに見せかけて、自分も同じ気持ちだと書いて朱殷の好きなところをお返しに書き並べる。やはり全てが慕わしいと締めた。
最後には、逢えずにいるときが、切ないけれど朱殷に逢えたときの喜びをより鮮やかにしてくれると書いた。
そして、この文をどうやって渡せばいいのかを几帳の奥に戻って思案していると、白装束の式神が再びあらわれた。無言のまま、すっと手を出す。姫君が文をその手に乗せると、両手にかかげ持って式神は消えた。式神というものを初めて見た姫君にとっては妖に惑わされた心地がしたが、朱殷からの文は確かに残されている。
「……朱殷……」
姫君は文を胸にあて、吐息を震わせた。文に返り言をするのは初めてだったが、呼応する想いを交わすことが、どれだけ甘く心を痺れさせるかを知った。
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