くちなしの姫君と銀白の龍その五

「いいのよ……この夜空……星がとても綺麗」


見上げれば空いっぱいに星が瞬いていた。どこを見ても夜空が広がり、星がある。屋敷の中から枠に切り取られた夜空しか見たことのない姫君にとって、新しい世界の幕開けだった。


「……ならば、よかった」


朱殷も笑顔になって更に高く飛ぶ。姫君の細い腕が、無心に角を掴んでいる感触が愛おしい。


「この夜空一面に清の香りが漂う……惜しいな。私が独り占めできない」


「……そのようなこと……」


姫君は朱殷に身を隙間なく寄せて顔を伏せた。そうすることで姫君の香りが朱殷の鼻腔により鮮やかに届く。


「清は優しい。私のような化身にも怯えることなく接してくれる」


「……それは……少し違うわ」


姫君が身じろぐ。湿った空気に入り、動きと相まって姫君の香りが一層際立った。


「何故?」


「……朱殷が優しいから……私のためだけに優しくしてくれるのだから……」


人間の男は違う。色々な女のもとを気まぐれに通い歩く。女は屋敷の中で嫉妬と物思いに浸けこまれる。あるいは帝に仕え、その御心を得るために手を尽くして苦辛はおもてに出せず鬱屈する。


それでも想い合っている瞬間は幸せなのかもしれないが、ただ一人を愛しぬくのは奇跡に近い。この世では女は常に男のために悩まされ、耐えることを強いられている。


けれど、朱殷はその仕組みを分かっていないようだった。


「伴侶に優しくするのは当然だろう? 愛するというのは出逢えたことに感謝して相手を思いやるものだ」


「朱殷……」


姫君は朱殷の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。朱殷の言葉はどこまでも甘く真摯で、姫君の想い描く理想がある。


だから、なのか。


「……ねえ、朱殷……」


「何だ? 寒くなったか?」


「いいえ……朱殷が温かいから……それよりも」


姫君は身を乗り出して朱殷の耳許に唇をあてた。


そして、囁く。


「私はあなたに惹かれているわ……昨夜出逢ったばかりだというのに……」


「清、それはまことか?」


「本気よ……朱殷は私の求めるものを差し出してくれる……」


姫君は言いながら胸がときめきで苦しくなったが、反面、今まで味わったことのない緊張と嬉しさを噛みしめてもいた。


「清……すまぬ、今すぐに降りる」


「朱殷……? 私、何か気に障るような……」


「違う……この姿では、清を抱きしめられない」


朱殷から迸る想いに、姫君の目許がほんのりと赤く染まる。


だが、そのさまが見えない朱殷は左大臣家の屋敷に向けて急く想いを抑えて降りてゆき、渡殿に着くとすぐに変化した。


姫君は龍の首許に座っていたのが、急に体が浮いたかと思えば気がつくと白煙のなかで朱殷に横抱きにされていて、黒目がちの瞳を見開いた。胸が早鐘打って堪えきれなくなりそうだ。


「朱殷、降ろして……恥ずかしいわ……」


「嫌だ……離さぬ」


朱殷が姫君の肩を抱き寄せて頬ずりをする。そのまま、唇に口接けた。


姫君は初めての口接けに目を閉じるのを忘れ、朱殷の顔を見つめた。長い睫毛が影を落としながら、息を呑むほど凛としている面立ち。


唇から朱殷の情熱が伝わってくる。角度を変えて口接けを深め、姫君の小ぶりに生え揃った前歯を舌先がなぞる。姫君の肩がぴくりと揺れた。


「あ……待って……しゅ、……」


「黙って……清は可愛らしい……今の震えるさまも愛おしい。そのままで……」


姫君のあえかな抵抗を遮り、また唇を重ねる。食べるような口接けに、姫君は体から力が抜けてゆく。


一瞬に永遠を凝縮した口接けだった。


朱殷が満ち足りた表情で顔を離す。姫君の体は抱き上げたまま。


「清……」


「……朱殷……」


まだ吐息のかかる距離で見つめあう。姫君はふと浮かんだ疑問を口にした。


「朱殷……夜空で言っていたこと……」


「何だ、清?」


「今の状態では……夜のうちしか時を共にできないとは、どのような意味があるの?」


朱殷が目を見張り、それから一度まばたきをした。ひどくゆっくりと、まるで覚悟を決めるかのように。


「……清、私は龍だ」


「ええ……知っているわ」


「龍は天界のものだ……天界のものは夜のうちしか下界の穢れには耐えられぬ。そして、下界のものは……」


朱殷はそこで言葉を区切り、姫君をそっと降ろして向き合い、抑えきれない熱を発する手で姫君の両肩を包んだ。


「……下界のものは……死が定まった魂のものしか天界には連れてゆけぬ」


今度は姫君が目を見張った。


「……それは……朱殷……」


「だが、私は毎夜必ず通おう。清に逢うために」


現実を突きつけられた姫君が口許を手で覆う。嗚咽を隠すために。けれど突き上げる慟哭は止められない。つい先ほど前までは星空に嬉々としていたのに。


「清……?」


「朱殷……私は……秋には後宮に入内させられるの……そうしたら、夜は……」


帝の寵愛を受けることになる。左大臣家の大君として相応の寵愛。おそらく自由な夜は少ないだろう。


何より、心は朱殷にあるのに帝に抱かれなければならないのが辛かった。


「私が大君などに生まれなければ……」


口にするたび、自分の立場を思い知らされる。姫君は涙を散らして泣いた。


──朱殷と二人きり、分け離されずに寄り添えるのは自分の生が終わるとき。


姫君は諦めきれずに哭くしかなかった。


「清……泣くな」


朱殷が姫君を見据えて口を開く。涙に濡れた頬を拭い、瞼に唇をあてて涙を吸う。


「清、それでも私は清を想い続けよう。その身がままならなくとも、心は自由だ。想い合っていれば、魂は共にある」


「……朱殷……けれど私はあなた以外のものに触れられるなど嫌……」


姫君は沈痛な面持ちで吐露した。朱殷の優しさとぬくもりを知ってしまえば、極上の蜜を知ってしまった蝶のように、もう他の花など考えられない。惹かれる想いを忍び、あまたの女御更衣や内侍などを気ままに呼び寄せる帝の寵愛を受け入れ、しかもよりお気に召されるために媚びなければならないなど、姫君には耐えられないと思えた。


「清……しばしの辛抱だ。いつか清を天界に導こう。清が天寿を全うしたときに」


「朱殷……嫌……嫌よ……!」


姫君が頭(かぶり)を振って激しく拒む。朱殷は姫君を抱きしめ、その頭を胸に押しつけた。姫君は朱殷の脈動を頬に感じながら、惑乱に身が千々に引き裂かれそうだった。


「清……契ろう」


「……朱殷……?」


「龍と契りを結んだものは特別な加護が受けられる……今、清に与えられる全てを捧げよう。……怖いか?」


姫君は涙に乱れた顔を上げた。朱殷もまた悲しげな表情で姫君を見ている。姫君の入内に覚悟を求められる眼差しだけがかろうじて力強さを保っていた。


──朱殷は真剣に私を少しでも救おうとしている。


心は既に互いを欲し合っている。恋しいと、ただ一人だけだと呼んでいる。


姫君は揺るぎない瞳で朱殷を見つめた。入内する前に未通女でなくなるなど許されない行為だったが、迷いはなかった。


「朱殷……私にあなたを刻みつけて……」


「清……」


思えば、雪崩のように恋に落ちた。それでいて雪解けのなかに鮮やかな緑の新芽を見いだす安らぎがある。


「私が入内するまで……毎夜訪れて。待っているから……」


「清……必ずや、改めて誓おう。そうして清の歌を聴き、清に恋情を囁こう」


「ええ……あなたにだけ歌うわ……」


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