第三章六
気がつけば、姫君は夏木の局に向かっていた。渡殿が、廊下が長い。果てしない迷廊に感じられる。
「……夏木……!」
勢いに任せて局に入ると、痩せ細り、紙の雛人形のようになって横たわる夏木の姿を見せつけられた。
「夏木、しっかりおし……!」
「……清様……?」
夏木が熱に浮かされながら重い目蓋をうっすらと開く。姫君は傍らに膝をついて夏木の手をとった。ぎくりとするほどに骨ばっている。
「……嬉しい……」
夏木が、掠れた声で途切れ途切れに呟きだす。姫君は聞き漏らすまいと耳を寄せた。
「……清様のお顔が……再び拝見できました……もう……思い残すことは、ございません……嬉しい……」
「何を言うの、夏木、すぐ祈祷を……!」
立とうとする姫君を、夏木が衣の裾を掴んで制した。
「いけません……物の怪が来たら……そのなかには、おそらく……清様のお産みになられた、主上が……」
「……! けれど……」
夏木の言う通りだった。夏木を呪うものが現れるとすれば、謀られた主上だ。先帝もありうるだろうが、それよりも我が子が亡霊となって何を言うか。考えただけで心が凍りついた。
「……清様……出ていってくださいませ……穢れに触れては……出ていって……」
「……夏木、私は言ったわ。……お前だけは手離さないと」
夏木の、熱く肉が削げ落ちた頬を包んで顔を近づける。細く短い息が夏木の肩を上下させている。このようなことになるのであれば、夏木を遠ざけなければよかったと姫君は悔やみに悔やんだ。
夏木の渇いた頬に、姫君が温かい涙をふりこぼして潤してゆく。夏木は涙のぬくもりに、頬を伝ううちに冷たく清涼になってゆく感触に、塞がれていた心が清められるのを感じた。過去の、逆だった思い出が懐かしく蘇る。
「もう……十分幸せでございます……清様……ここから離れてくださいませ……私の最期を……」
──見届けなくてよいのです。
「夏木……!」
「私の……お願いでございます……どうか、お聞き入れあそばして……」
夏木は、そこまで言うと力尽きたように目を閉じた。あとは姫君がどれほど呼びかけても、ぴくりとも反応しなかった。
姫君はそこに座り込み、一睡もせずに夜通し、寝顔を見つめ続けた。夏木の息を確かめながら。
息はだんだんと弱くなっていった。このままでは、もう残された時間はないだろう。
夏木が死ぬ。
姫君は考えたこともなかった。だが、今直面しているのは間違いなく夏木の死だ。夏木を失って、どう生きてゆく?
夏木の──半身のいない生を。
「夏木……私は……」
夏木の寝顔を見守りながら、姫君がそっと口にのぼせた。続きは夏木の意識が戻るのを待つつもりで。
夏木が目を醒ましたのは、夜が白む直前の暁闇の頃だった。
「夏木、気分は……どこか辛いところは?」
姫君が、はっと夏木を覗き込む。夏木は陶然とした表情を浮かべていた。
「……夢を……見ておりました……清様と、花の蜜を……」
「ええ……また二人で味わいましょう」
「ですが……私は……」
夏木の面差しが翳りを帯びる。もう死が迫っていると自覚していた。
「……清様……春には、あの紫の花を……愛でてくださいませ……そこには、私がおります……」
「いいえ……二人で愛でるのよ……」
姫君の声は低く、狭い局であやしく響く。
夏木は力なく姫君を見上げた。姫君の黒く澄んだ瞳は、揺るぎない何かを感じさせる。
「夏木……あの守り刀は?」
「……ここに、ございます……」
朦朧とした意識のなか、思考する力も失った夏木は衾から少しだけ刀を引き出した。
「……こうして……ずっと胸に抱いて……清様を、近くに感じられるようで……」
姫君のなかに、愛おしさの奔流がわき起こる。夏木はそうして独りで死ぬつもりだったのだ。最期まで姫君を想いながら。
姫君は衾から覗く刀を静かに取り上げた。鞘から抜き、膝の上に置いて、夏木を優しく見下ろす。
──これほどまでに、愛し愛されていた。
ならば、何も恐れることはない。
「夏木……お前のいない生なんていらない……」
「……清様……?」
「お前が死ぬのなら……それが宿命だというのなら」
言葉を紡ぎながら、膝から刀を掴む。両手で柄を握り、切っ先を夏木に向けた。
「死ぬのは一緒よ……お前を奪われる前に……お前を殺して、私も死ぬわ……」
「……清様……! そんな、清様まで……」
熱が通り過ぎて潤いをなくした瞳が驚愕に見開かれる。だが、夏木の諫める色を姫君は微笑んで否定した。
「一緒に……同じ蓮のうてなで……あるいは業火に焼かれながら……あの花を愛でましょう? 心は常に共にあると、いつか言ったわね。ならば魂も共にあるのよ」
「……清、様……」
夏木は一筋の涙を流し、目を閉じた。
「……清様によって……終われるのでしたら……私は、幸せなのでございましょう……」
早晩失う命だ。選べるのなら、愛する姫君に委ねたい。
「夏木……愛しているわ……」
姫君が哭きながら夏木に刃を突き立てる。
夏木がくぐもった声を上げた。衾が赤く染まってゆく。
姫君は刀を抜き、ためらわず自分の首筋にあてた。夏木が急速に下がる血の気に喘ぎながら、うわごとのように声を絞り出した。
「……さ、や……さま……死なないで……」
「いいえ……これだけは聞けない……お前を失っては生きてゆけない……! お前を失くした独りきりの生などに意味も価値もないのよ……!」
その言葉で背を押して、姫君は自らの首をかき切った。血飛沫が夏木の蒼白な頬に紅をさす。
姫君は満たされた表情で夏木の上に倒れ込んだ。
「……さ……さま……」
夏木が最期の力を振り絞って手を上げる。
がくがくと震える手で姫君の頬を包み、それから見えなくなった目を永劫に閉じて、触れるだけの口づけをした。
「……あい……し、て……ます……」
血の味を最期に感じ、もう一筋の涙を流して命は尽きた。
朝になり、姿が見えなくなっていた姫君を探し回っていた尼達によって姫君と夏木が息絶えているのが発見された。
二人はぴたりと体を重ねて、唇が触れあっていた。
六条邸も故関白家も騒然となったが、中宮の御位を自ら捨てた姫君のことだ。形通りにだけねんごろに弔って、夏木には姫君の墓の隣に小さな墓をたてて、二人を埋葬した。
その後、故関白家は零落して、屋敷も人手に移った。
けれど庭はそのままに、今も春になれば紫の花が咲く。耳を澄ませば鈴を転がすような声まで聞こえてくるだろう。
「夏木……今年も咲いているわよ、あの花が」
「「はい、本当に……一枝折り取ってまいりましょうか?」
「ええ……二人で楽しみましょう。共に……」
「はい……嬉しゅうございます……ずっと……」
「そうね、ずっと二人だけの……」
「はい、私は清様のものですから……」
「分かっているわ、夏木……愛している……」
そうして、紫の花に二匹の色鮮やかな蝶が寄り添いながらとまった。
まるで、姫君と夏木のように。
完
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