第三章二
もとより、父の野望の道具として入内させられただけだ。その父がいなくなった今、後宮に居場所がなくなるというのであれば嬉々として出てもゆこう。主上も無事に育ったのだから、思い残すことは何もない。
「私は……時勢というものに従おうと考えております」
「──いけません!」
主上が跳ねるように反駁し、姫君の肩がびくりと揺れる。今まで、主上が母たる姫君に口調を強めることなどなかった。
なのに今、主上は思いのまま話す。
「父帝が崩御されたとき、まろが母上に願ったことを覚えていらっしゃいますか?」
──ならば私に仕えてください。おたあさまが、いなくなるのは嫌です。さびしい……。
「はい、覚えております……ですが、もう……」
私は用済みなのです。そう言おうとする姫君を主上が遮った。
「今でも、その願いは変わりません。……まろに、どうか……」
姫君は庭の木々の葉擦れの音を聞いた気がした。激しく打ち合う音を。胸がざわめく。これ以上言わせてはいけないと思う。
「……やめて……」
喉が塞がれたように、うまく声が出ない。苦しくて息もできない。
主上も苦しんでいるのだろうか? 想いを訴えるさまは苦悶に満ちている。
「お慕いしているのです、母上……いや、あなたを」
「やめて……!」
葉擦れの音がうるさくて気が狂いそうになる。姫君は無理矢理に声を押し出した。
その瞬間、主上が几帳の垂れをかき分ける。姫君がはっとして顔を上げると、我が子とは思えない主上の顔があった。
一人の男の顔だった。
「やめて……来ないで……!」
「母上!」
姫君の体が激情に震えてうつ伏せる。その肩を主上が猛々しく掴んだ。痛いほど熱い。
十歳の無邪気さが、男をまとって迫ってくる。姫君は戦慄を覚えた。
このままではいけない。なのに身動きがとれない。体が熔岩になったかのごとく、いうことをきかない。
「……申し訳ございませぬ。刻限がまいりましたので……」
もう駄目なのかと思ったとき、御簾の向こうから、控えめながら有無を言わせない声がかけられてきた。夏木の声だ。
姫君は我に返って身を起こした。
「……今行くわ」
「母上……まろは、」
主上の手を払う。主上が未練をたたえているのを、姫君はきっぱりと拒んだ。
「今のお言葉は聞かなかったことにいたします……ご乱心あそばしませぬよう」
拒まれた主上が、どのような表情をしているのか姫君は見なかった。見てしまうのが怖かった。
そのまま弘徽殿を後にしようと御簾の外に足早にして出ると、夏木の姿があった。姫君はどれほど異様な雰囲気をあらわしていたのか、夏木の面に緊張が走る。
「清様……! いかがなされました? お顔の色が……」
「いいのよ……すぐに、ここを発つの」
「はい、ですが……一体、主上から何を仰せに……」
夏木は御簾の方を見やった。主上の動く気配がない。
「──いいから!」
押し切る姫君の荒い語気に夏木が息を呑む。それを見て、姫君は弱々しく首を振った。
「今はここを離れないと……後で話すわ……お前にだけは……」
「清様……」
そして、姫君は無言になり、輦車に乗って後宮から去った。
着いた屋敷は悲歎に潰れそうな様相を呈していたが、母たる北の方や兄弟達に挨拶もせず居室の奥深くに入る。その異常さに屋敷のもの達は戸惑っていたが、気にかけてやる余裕はなかった。姫君と夏木の二人きりになる。
「清様、お話しくださいませ……ここには誰もおりませぬ」
夏木が姫君の様子を気遣いつつ切り出す。姫君は恐怖におののきながら、切れ切れに話した。口にするのもおぞましい内容の話を。
「主上が……私を……母としてではなく……はっきりと、そう言って……」
夏木は絶句した。心に引っ掛かっていた違和感の正体はこれかと悟り、全てが腑に落ちる。
「お前が声をかけてくれなければ、主上は……私を、あの場で……」
姫君は顔色を失い、手が小刻みに震えている。どれだけの激情をぶつけられたのか、夏木にも察するに余りある。
夏木が冷えきった姫君の手をとり宥めるように握る。姫君の体が、夏木に倒れかかった。
「もう心配はございませぬ……主上は、ここまではお出でになれません」
姫君をしっかりと抱きとめて、耳許に囁く。やがて、姫君の嗚咽が閉ざされた空間に響きだした。夏木は姫君を慰撫するように両腕いっぱいに包み込み、背をさすった。
「夏木……私は……」
姫君は夏木にすがりついて泣きながら心情を吐露した。
「……私は、出家したい……」
「清様、それは……」
言いかけて、夏木は唇を噛みしめた。姫君の気持ちを考えると、迂闊なことは言えなかった。姫君の慟哭を前にしては。
関白を亡くしたなか、一家の頼みの綱は中宮である姫君だけだ。その中宮まで失えば、確実に落日を迎えるだろう。この家には新たな大臣となれる有力な人材はいない。家格と父の権力で位を昇せてきたもの達ばかりだ。
客観的に見れば姫君の出家は反対するべきなのだろうが、我が子に母子の絆を無下にする想いを掛けられた心の痛みを思うと、逃げ道としては出家以外にないのではないか。
「夏木……私はどうすれば……」
姫君の掠れた声に、庭の枝葉が騒ぐ音が混ざる。嵐が近づいてきていた。
「……清様がどのようなお姿になられても、私は従います」
夏木自身、驚くほど静かな声が出た。姫君が夏木を見上げる。
全ては姫君のためだけに。この家が傾こうと関係ない。もとより姫君から搾取し続けてきた家だ。姫君はもう十分に苦しんだ。夏木からすれば、姫君さえ平穏に幸せでいてくれるのであれば、それでいい。それこそがいい。
姫君が泣きやみ、夏木の決意を汲み取る。とめどなく涙を流していた目に、心を固めた輝きが宿った。
「夏木……お前に下げ渡した守り刀は?」
「……大切にしてございます」
「……ここに、持ってきて」
夏木はもはや何も言い返さず、ただ頷いた。
「……しばしお待ちくださいませ」
「ええ……」
守り刀は局に運ばせてある。姫君を置いて立ち上がり、局に向かおうと御簾をくぐり、庇の間に出る。姫君が何をしようとしているのかは、訊かずとも分かっていた。
そこに、姫君の兄弟達がやってきた。
「おお、お前は……」
後宮から退出するなり自室に籠もった姫君の様子を見に来たのか。誰も一様に顔色が悪い。先を憂いてか目が落ち窪んで、くまができている。そのなかの眼が、不安からか剣呑にぎらついていた。
頭を垂れて素通りしようとした夏木を、兄弟達は行く手を阻んで口々に喚きだした。
「中宮様はいかがなさっている? この家の一大事にお言葉もないとはおかしいだろう」
「そうだ、主上からも御使いのものが来ているというのに……喪が明けたら後宮に戻るようにと、かたじけないお申し出を頂いているのだ。返り言をしないわけにはゆかぬ」
「……中宮様はご心痛のあまり取り乱しておいであそばしますので……何とぞ」
やり過ごそうとして夏木が言ったことは、火に油を注いだ。兄弟達はいきり立って、取り憑かれたようにまくしたてる。
「何と心許ない……中宮でありながら、ご自覚が足りないのではないか? 主上のご生母であらせられるのだぞ。入内前の娘時代ならともかく、ご自身のお産みになられた主上にまで、お黙りで済ますおつもりか?」
「そうだ、姉上は中宮様であらせられる。中宮様のお心添えがあれば、まだ……主上は中宮様を軽んじられることはなかろう」
「後宮でも大層中宮様をお慕いであらせられたと聞く。母たる中宮様の言であれば主上も重く受けとめられよう。お前は御使いのものが来ていることを中宮様にお知らせ申し上げろ。そしてお取りつぎのことを。今後のことについて何としても話さなければならない」
慕う心の意味の違いも知らず、兄弟達は姫君に一家を支える中宮としての振る舞いと働きを求める。反吐が出るほど身勝手に。
夏木は内心で舌打ちをした。今は姫君のもとへ戻って、別の機会に取りに行くしかないかと諦めかけたものの、今の姫君に何を取りつげというのだと考え直した。
使いが寄越されている? 姫君に主上へ、どう言えばいいと? 主上は姫君を母ではなく女として見ているというのに。母としてならば返事もためらわなかっただろうが、今日まで我が子として慈しんできたものに、いわば裏切られたようなものだ。
もう、これ以上姫君を悩ませるものは、夏木には許せない。
「中宮様は道理をご理解しておいででございます。ですが、今は何もお話しになれないご様子であそばします。明日にでもなりましたら、多少は落ち着きになられましょう。何とぞ中宮様をお信じくださいませ」
夏木は彼らの顔を真っ向から見て後、更に頭を深く垂れて言い切った。今は騙すしかない。どう責められても、姫君には近づかせない。姫君の切実な願いがかかっているのだ。
「……ならば明日、必ずやお話しできるよう取りなせ。いいな、必ずだ」
兄弟達は納得のいかない面持ちをしていたが、それでも夏木に気圧されてくれた。
夏木は胸を撫で下ろし、「かしこまりました」と答え、今度こそ局に向かって急いだ。
そして局に着くと、刀を手にとる。ずしりとした重みがあり、不気味な冷ややかさが伝わってくる。
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