第三章一




 *



 幼い春宮は帝に即位し、姫君の父は関白となって政権を掌握した。天下を極めたと言ってもいい。

 新帝は姫君が退出するのを公然と嫌がった。

「おたあさま……ここから、出ていってしまうのですか?」

「そうよ……仕える方がいなくなってしまったから……」

 姫君は胸に痛みを覚えながら言った。主上を弑し奉ったためではない。それは悔やんでいない。ただ我が子から父を失わせ、物心もつかないうちに新帝として立たせなければならなくなったことが心苦しかった。

 それを知るよしもない新帝は、母が別れを告げようとしているのを見てとり、泣きながら懇願した。

「ならば私に仕えてください。おたあさまが、いなくなるのは嫌です。さびしい……」

 腹を痛めて産んだ子にねだられては断れない。姫君は新帝のたっての願いで中宮のまま後宮に留まることとなった。

 新帝は父を亡くしても意味がよく分からないようで、そのあどけなさに主上のもとで仕えていた内侍などは涙を流した。

 夏木は浅慮ゆえに目論見がはずれたことを憤った。姫君は中宮だったのだ。そして御子の新帝は宮中にいる。更に父たる関白の思惑もある。主上が亡きものとなっても、あるいは皇后としてでも宮中に留められることは、たやすく想像できたはずだ。

 しかし、中宮のままでという点が引っ掛かった。新帝はまだ元服も済ませていない上に後宮では女御更衣も当然不在なのだからと言われれば納得するしかないのだが、何か魚の小骨が喉に刺さったような違和感をぬぐえなかった。

「仕えるものもいなくなったというのに……これでは羽をもがれた鳥ではないですか」

「そうかもしれないわ……けれど」

 行き場のない怒りを籠めた夏木の言葉に、姫君は対照的に淡々として答えた。

「新帝は私の産んだ子よ……見捨てることなど母としてできないわ。まだいとけないのに父を亡くして、重責を負わされて……」

「清様……」

 姫君は新帝から父を失わせたことに罪の意識を抱いている。贖罪のために新帝を蔭から支えようとしている。夏木にはそう見えた。

「……清様のお心のままに。私は清様に従うのみでございます」

 表向き怒りをおさめて頭を垂れる。姫君は、ほっと息をついて笑みをたたえる。

「そうよ……私にはお前がいる……お前が私の羽よ。だからこそ主上を斥けることができたわ。中宮として後宮に残っても、もう誰も私のことを……」

「はい……誰にも清様には近づけさせませぬ。全てから清様をお守りいたします」

 夏木が決意をあらたにすると、姫君はそれを頼もしそうに見た。そこには現状に対する不満はない。

 だから夏木は、もう異論はとなえられなかった。

「ねえ、夏木。あの紫の花はここにも咲いているかしら」

「清様……?」

 紫の花。

 少し遅れて夏木は思い出した。まだ女童として仕えていた頃と姫君の初めての懐妊のとき、姫君と顔を合わせて蜜を味わった。あのときは何の不安もなかった。ただ、姫君の傍近くにいられることが幸せだった。

「はい……確か、咲いていたと思います」

 すると、姫君は「そう……」とどことなく眩しそうな表情を見せた後、夏木に悪戯を持ちかける色をあらわした。歳月が経ち、立場が変わっても、変わらない瞳で。

「夏木、一枝持ってこさせなさい。懐かしいわ……一緒に愛でましょう。あの蜜をまた二人で……」

「はい……はい、清様。すぐに……」

 夏木の胸にも甘酸っぱい懐かしさがこみ上げる。女童だった時、花の枝を折り取ることを誰かに見咎められはしないかと、恐れながらも姫君を喜ばせたい一心で取ってきた。姫君は楽しそうに夏木のまねをして蜜を吸い、「まるで甘露ね」と朗らかに笑ったのだ。

 花は女童に命じて取り寄せた。几帳の奥で、また向かい合って花を見つめる。姫君がなよやかな指で一つの花を摘まみ取った。夏木もそれに倣う。

 互いに、自分の持つ花を相手に近づける。

 手が交差して、姫君の香りが夏木の鼻腔に届く。変わらないのは瞳だけではない。この香りも変わることなく夏木を包んできた。どのような花でも敵わない香り。

 久し振りに吸う蜜もまた、変わらなかった。

 その味に、姫君がしみじみと呟く。

「やはり甘いわ……美味しいというものを久方振りに感じる……後宮に入ってから、どのような食事でも味はなかった……」

 姫君は常に心を張りつめ、我慢の日々を送ってきていた。煩わしい主上の御寵を、ありがたいと受け入れることを強いられていた。夜の御殿に通わされ、昼間は主上のお渡りをもてなさなければならず、身も心も休まるときなどなかった。

 肩の荷はどれほど重かったか。夏木はすぐ傍に控えながら、ずっと見てきた。だからこそ、姫君は夏木と二人きりのときには素顔をさらせる。暗く深い森のなかで、一条の陽射しを受けて咲く白い可憐な花を見いだしたときのように安らげる。

「清様……もう、お気をお張りになる必要はございませぬ」

「ありがとう……お前の吸う蜜も甘い?」

「はい……とても」

「お前の蜜も味わわせて……」

 姫君の顔が近づく。夏木は間近で美しい顔に見とれて、寸前でそっと目を閉じた。

 口づけは甘かった。唇から全身がとろけてゆくようだった。余分な力が抜けて、心地よさに体が弛緩する。

「このときが、ずっと続けばいいのに……」



 姫君は後宮にあっても夏木だけを傍に置き続けるようになった。新帝は折に触れて弘徽殿を訪れて姫君に近しくする。姫君は我が子の成長してゆくさまを嬉しく見る。そんな平和な日が続いて、新帝が即位してから数年が経ったところで、姫君の周辺に異変が起きた。

 関白として辣腕を振るっていた父が、病に倒れた。

 病は重く、祈祷の声を絶やさぬなかで落飾したが験はなかった。姫君も寺社へ平癒祈願を行わせたが、屋敷では関白を呪う物の怪が次々と襲いかかり、病はひどくなるばかりだった。

 そして一月後に、関白はむなしく世を去った。姫君の後ろ盾になるのは、残された関白の息子達と北の方だけとなった。

 関白たる父を失った姫君は後宮で孤立したようなものだった。息子達はまだ若すぎる。北の方の生家は由緒正しい宮家だが、やんごとないだけで政治的な力はない。

 とりあえず姫君は喪に服すために里下がりをすることとなった。

 すると、出立の直前に姫君の産んだ主上のお渡りがあった。

「これは……主上、このようなお見苦しいところに……」

 女房達がうろたえる。主上は構わず、沈痛な面持ちで入ってきた。

「中宮と大切な話がある。……しばらく二人だけに」

 夏木は嫌な胸騒ぎがして「ですが……」と食い下がろうとした。しかし、主上は「そなたもだ。常に中宮の傍近くに侍っているのだから不安にもなろうが、心配は無用」と切り捨てた。

「清……中宮様、いかがいたしましょう」

 はっきりと拒絶して欲しい。そう願いながら姫君を窺う。だがこのとき、姫君は父を亡くしたなかでありながら気丈に過ぎた。

「いいわ……主上の仰せの通りに。この状況で大切なお話があるというのならば、よほどのことでしょう……夏木、お前も下がりなさい」

 夏木も姫君にまで命じられては下がるしかなかった。他の女房達と混ざって、後ろ髪を引かれる思いで離れる。すれ違いざまに一瞬見た主上の表情は、最初の沈痛からすでに何かが切り替わっていた。

 姫君は几帳だけを隔てて主上と対面した。

 元服を翌年に控えた主上は背丈も伸び、凛々しくさえあった。

「それで、主上にはどのようなお話で……」

「母上の今後についてです。……いかがお考えですか」

 姫君は目を伏せて言葉を探した。

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