第二章八
だが、当然ながら主上には不満があった。
「その、そなたの心の固さに、まろは戻ってきてくれてなお嘆かねばならない……」
「主上……」
姫君は申し開きもせずに、そっと顔をそむけた。うるさいものを見ずに済ませるためを思わせる所作で。
「新しく宣耀殿に入った女御はよく笑う。春の日差しのように。まろはそなたが、そうした笑みを見せてくれたならば、いかほどに愛らしいかと思う」
宣耀殿の女御は華やかな気質で、何不自由なく伸び伸びと育てられ、年齢も十八と熟しており、内侍だった母をもつためか物怖じせずに受け答える。早くも宣耀殿は社交的な場として賑わっている。
その女御は夜の御殿でも悦びを隠さずに、よく笑うという。
「そのような……お恥ずかしゅうございます、何とぞお許しを……」
「恥ずかしがるさまも、まことに愛らしい。だが、そなたが宣耀殿の女御のように溢れるような笑みを見せてくれるのならば、それはさぞ美しく艶やかであろうと思うのだ」
姫君は主上に心を許したことはない。おそらく、この先にもないだろう。そのような相手に、言われている笑顔を向けるなど想像もつかない。
「産褥を乗り越え、変わりない姿を見せてくれていることは嬉しい。……だが、相も変わらずに、つれない様子を見なくてはならないのかと思うと悲しい」
「主上……私は誠意をもってお仕えいたしております……」
姫君は主上に媚びるようには育てられていない。常に格式高くあることを求められてきた。それを守り、その上で夏木を侍らすことを許されている。主上に体を捧げる──その労苦に見合った代償が夏木なのだ。
夏木がいなければ、もはや制約の多い後宮の宮仕えには持ちこたえられなかった。屋敷にいた頃のまま、夏木を近しく置いておける。夏木に思うことを吐き出せる。ありのままの自分を夏木に曝け出すことができる。
それが、怨嗟もかかるなかで、どれだけ精神的な支えになっていることか。
押し黙った姫君に、主上は厭わしく思われたのかと不安になり、話題を変えた。後宮という主上のご寵愛を激しくもたおやかに競うなかで、逆に主上に気を遣わせるのは姫君くらいのものだろう。しかし、姫君はそれを当然のものとしてすごしている。
それは、歪なありようだった。主上の姫君を想う心と、父たる太政大臣の権力が成り立たせている。主上は姫君に執心するあまり、その異常さにまだ気づいていない。
姫君は殿舎に戻ると、早々に夏木を呼んだ。
「お前も聞いていたでしょう? 宣耀殿の女御のこと……はしたない……」
「はい……春をひさぐ賤しい女でもあるまいに、主上の仰せになることこそ嘆かわしく存じます。清様は国母ともなるべきお方。重々しくいらっしゃって何がいけないのかと」
夏木はすかさず同調した。それによって、姫君のうちで曇りわだかまっていたものが晴れてゆく。
「分かってくれるのはお前だけよ、夏木……皆、主上には媚びることばかりを考えている。女房どもも愛想よく振る舞えと……」
「清様は中宮の御位を確かにしておられるお方です。お父上の太政大臣様もご健在であられます。今しばらくご辛抱なされば、お産みあそばされた御子も春宮になられましょう……それさえ叶いましたら……」
「先の長いことね……あと何年……」
「……清様、そう遠い未来ではございませぬ」
夏木はそう言うが、姫君は気怠そうにして脇息にもたれた。御子が袴着を済ませれば春宮の宣旨は下されるだろう。だが、それまであと三年は我慢を続けなければならない。
気遣わしげに姫君を見ていた夏木が、そっと姫君の肩に触れて背後に回る。
「……肩をお揉みいたしましょう」
「労ってくれるの? そうね……主上のもとに上がって疲れたわ」
「はい……お心お察しいたします」
女房達は主上の呼び出しを著しいご寵愛だと微笑ましく、ありがたいものと見ている。誰も姫君の心労に気づこうとしない。
──やはり、夏木だけなのだ。心情を理解してくれるのは。
肩を揉む手が、心地よく刺激をもたらす。強くも弱くもない絶妙な力加減に、姫君は心まで快くほぐれてゆくのを感じた。
このまま、しばし安らいでいたい。そう思う姫君の耳に、女房の弾んだ声が飛び込んできた。
「主上のお渡りでございます。中宮様がお楽しみになられるかと、絵巻物をそれはたくさんお持たせあそばして……」
姫君と夏木が顔を見合わせる。姫君は倦んだ溜め息をもらした。
主上のご寵愛は抜きん出て著しく、姫君は月の障りがあるとき以外は毎夜のごとく夜の御殿に通わされた。
そして御子が親王の宣旨を頂くと、なおさら主上は姫君を離そうとしなくなった。
姫君は鬱屈する思いを夏木にぶつけ、より一層夏木を求めた。夏木はそれを受けとめ、常に姫君を励まし、慰めた。
そうしているうちに二年の歳月がすぎ、姫君は不調のなか異変をあらわした。
再びの懐妊だった。
姫君はそれを悪阻で知った。このところ食が進まず、月のものが乱れていたからだ。
父たる太政大臣は知らせを受けてすぐに里下がりを願い出た。先の御子での難産を思い出し、懸念したためだった。
主上はすぐには許そうとしなかった。里下がりをさせてしまえば、また長い間会えなくなる。しかし、度重なる太政大臣からの願い出に、渋々ながら許さざるをえなくなった。
例のごとく退出の日に弘徽殿へと渡ってきた主上は、悪阻と二年分の心労で痩せ細った姫君を抱きしめ、別れを惜しんだ。二度目の懐妊を得たことによる並々ならぬ縁を説き、一方で姫君の薄情を恨む。
「御子が産まれるのは嬉しいが、またしばらく引き離されるのが辛い。そなたが先の御子を産んだとき、使いのものは、いつも手ぶらで帰ってきた。この度もそうなるのかと……そなたは、まろがそなたを想うようには、まろを想ってはくれない」
「主上……そのようなことは……」
姫君は悪阻で気分がすぐれず、はかばかしい返事もできない。主上は離れることを辛いと言うが、こちらは起きていることさえ辛いものを、斟酌せずに恨みごとを語る主上には逆にこちらが恨みたくなる。
その姫君を庇って夏木が進み出た。さも主上に同情するかの口調で、すらすらと嘘をつく。
「中宮様は確かに主上を想っていらっしゃいます。ただ、お育ちゆえに、お心のことを口にすることにはお慣れになっておいでではございませんので……」
「それは信じてよいのか?」
主上が姫君の髪を手に絡めながら問うと、姫君はあえかに頷いた。
「はい……私は主上をお慕い申し上げております……」
「それならば、まろは満足だ。まろとそなたは比翼の翼である」
「はい……」
最大限の譲歩と偽りに、虫唾の走る思いで姫君は答えた。比翼の翼は夏木だけだ。主上の入る余地などありはしない。
その夏木は主上の話すことを無表情で聞いていたが、取り繕うように強いて笑みを作った。悦に入っている主上を持ち上げながら、姫君の援護をする。
「ほんに、お麗しいご一対でございます。主上にはかたじけないほどの御寵を頂けて、中宮様もお幸せでございましょう。さ、お支度が整っております。何とぞ……」
気を良くした主上は、名残り惜しげにしながらも姫君から手を引いた。すかさず夏木が立ち去ろうとする姫君を支える。
「お立ちになれますか?」
「ええ……」
これで、また二人で邪魔も入らずにいられる。出産は命がけだが、姫君にとっては夏木がいてくれれば頼もしい。
姫君は輦車に乗り、後宮を後にした。
太政大臣家では、親王を産んでから一度も里下がりを許されなかった姫君を、屋敷ごと歓待した。
屋敷で育てられている親王は発達がよく、母たる姫君にまとわりついて色々と喋った。
「おたあさま、ずっといてくれるの?」
皇室では母のことを「おたあさま」と呼ぶ。幼いながらも親王然とした我が子に、姫君は母として愛おしそうな眼差しを向けた。
「そうね……あなたの弟か妹が生まれるまでは」
「おとうと? いもうと?」
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