第二章七

「元気な男御子でございます、清様、よくぞ乗り切りあそばしました……!」

「……そう……夏木……」

 姫君が生きていることを確かめるために言葉を重ねる。姫君は浅く息を繰り返しながら、呟いた。夏木にしか聞き取れない声で。

「……お前が、欲しい……」



 *



 産養は日程通り盛大に催された。

 十九の終わりになって、主上はようやく次の世を担う春宮となるべき御子を得た。

 その父たる院からも心の籠もった祝いの品が届けられ、親王や大臣家もそれに続き、京の都全体はこの産養こそが今勤めるべきことと大いに励む有り様だった。

 主上は頻繁に使いを送り、姫君は産褥の疲れを理由に沈黙を通し、女房や父母が代わって対応した。主上からは早く御子が見たい、そなたのいない後宮は味気ない、ついては参内のことを、とそればかり。

「まだ産養も済んだばかりだ。主上のお心は非常にかたじけないが、中宮はまだ体力も回復せずに臥せっておられる。面やつれのした顔は情を深めるものだけれど、命を賭して出産に及んだ我が子を思えば、今しばらく休ませてやりたいのは愚かな親心だろうか」

 父の太政大臣がそう言えば、母たる北の方も頷きながら言葉を繋いだ。

「御子はこのようにお可愛らしくございます。使いの方がご覧になりましたら、主上によく似ていられることは驚くほどと仰せになりまして、主上もそのようにお聞き及びになられているとか。早くご覧になりたいお気持ちもまた、かたじけない親心と申すものでございましょう。ですけれど、中宮はこのお年若で出産のことを果たされて大層お疲れでいらっしゃいます。今後の宮仕えのためにも、今はお体を休められて十分に備えをと、愚かながらも、そう思いますのよ」

 姫君の娘時代に気儘を許した両親は、主上に「かたじけないご寵愛」とありがたがりながらも我が子の身を第一にした。

 乳母には宮家に繋がりのあるものが選ばれた。やんごとない乳母の乳を吸い、御子は健やかにある。周囲はそれを何より喜んだ。

 姫君は産養が済んでから初めて御子を抱いた。まだ首がすわっていない赤子を、抱き方を教わりながら乳母から渡されて恐る恐る腕に包んだ。

 赤子は安らかに寝息をたてていた。乳母から移されても起きる気配はない。

「先ほどまで、それはそれはお泣きになっていらしたのですが……やはり母のもとでは落ち着きになられるのでございましょう。これほどご機嫌がよろしくお休みあそばされていらっしゃるのは珍しいことでございますよ」

 乳母が嬉しそうに語る。姫君はそれを身に染んで聞いた。腹のなかに宿していたときには自分の全てを喰らう化け物のように感じていたものが、今は無垢な姿を見せている。何の汚れもなく、すやすやと眠るその寝顔は、どこまでも純粋だった。

 それは、姫君に母性が芽生えた最初だろう。一度腕に抱いてしまうと、なかなか手離しがたく思えた。

 夏木はその姿を複雑な思いで見つめていた。

 姫君は母となり、新たな強さを身につけた。待望の男御子で喜ばしいはずなのに、何かが引っ掛かり、素直に喜べない。これが女御子だったら、また違っていただろうか。姫君が慈しむ赤子に嫉妬しているのだろうか。それともまた違う気がした。

 予感に近い。子は母を慕うだろう。そして母は輝かんばかりに美しい。

 その夜、姫君の寝所に侍っていると、姫君が感慨深げに呟いた。

「子など欲しくはないと思っていたけれど……可愛いものね」

「……はい……」

「まるで、お前と初めて出逢ったときのようだったわ。邪推も思惑もないさまで……」

「清様……」

「どうしたの、夏木? 今宵のお前はいつになく言葉少なだわ……御子に妬いているのかしら?」

「いいえ……いいえ、そのようなことは決して……」

 言えない。姫君は無邪気に赤子を愛でている。そこに危うさを見ているなどとは言えない。

 言いよどんだ夏木を、姫君は笑みを浮かべて呼び寄せた。

「お前が気に病むことなど何もないわ……愛おしく思うものが増えても、お前は私にとって特別よ……もっと近くに」

「はい……もったいのうございます」

 ──まるで、初めてお前と出逢ったときのようだったわ。邪推も思惑もないさまで……。

 姫君の言葉が胸に痛い。姫君は無心に夏木を信じている。しかし、今、夏木のなかには邪推ともいえる危惧がある。姫君に赤子を産ませたのには、男御子を春宮にして姫君の地位を盤石のものとする思惑があった。主上を亡きものとした後、姫君の立場が脅かされないように。姫君はそうした夏木の邪推や思惑に気づいていない。

 ──あの御子が男子であってよかったのだ。

 早晩、間違いなく春宮に立つだろう。主上のご寵愛は煩わしくつのるだろうが、それは自分が傍にいて姫君を支えればいい。思いわずらう必要はないはずだ、そう言い聞かせる。

 夏木が物思いにふけっていると、姫君がやおら手を伸ばして夏木の頬に触れた。ぴくりと夏木の肩が動揺にはねる。

「……夏木?」

「あ……申し訳ございません、清様……」

「気分がすぐれないの?」

「いえ……ただ、本日の清様のお姿を思い返していただけでございます……お美しかったと」

 苦しい言い訳だが、事実、母性に目覚めた姫君は柔らかさと強かさをたたえて美しさを増していた。夏木が危ぶむほどに。

「そう……けれど、また後宮に参内しなくてはならなくなるのね……主上は御子をお取り寄せになられて、これほど麗しい御子を産んでくれた私に早く会いたいと、執拗に……」

 夏木の頬の感触を味わっていた姫君の手が、はたりと落ちる。夏木はその手をとって、労わるように手のひらに包んだ。冷たく小さな手はまた少し痩せたかと感じられて、いたわしさに心は塗り変えられ、夏木はぬくもりを分かとうと胸許に押し包んだ。

「お前の手は温かい……主上のお手は、くちなわのように冷やりとして気味が悪いのよ」

 姫君がされるままに、心地よさげに目を伏せる。

 そして、夏木は何度となく繰り返してきたことを口にする。

「私がついております……この先何がございましても、私は清様のおためだけに……全てを賭けて」

「ええ、お前がいてくれる……私はお前を手離せない」

 中宮として、御息所として背負うものが重さを増してゆく。おもてに出せない感情を共有できる存在は必要不可欠なのだ。夏木は絶対に自分の心に添ってくれると信じられる、姫君にとって唯一無二のもの。

「はい……私は決して清様のお心を裏切りませぬ……誓います」

 夏木の誓言に、姫君は微笑みを取り戻した。そうだ、自分には夏木がいる。いつか我が身にも自由を取り戻してくれるだろう。どれほど恐ろしい罪によるものだとしても。二人は共犯者なのだ。この世に二人きりの。

「ねえ、夏木……今宵は、このまま……」

 姫君が甘美な誘いをかける。このところ、産養の慌ただしさや姫君の体調のため、共臥しすることはなかった。夏木のなかに蜜が満ちる。

 その蜜はおそらく何よりも甘く、そして毒を内包している。

 夏木はその甘い毒に痺れながら、抗いがたく落ちてゆくのだ。

 姫君とのときは、いつでも夏木に至福を与える。そこには罪の意識もあいまっている分だけ、なおさらに高められた幸せがある。

 姫君は夏木だけを求める。中宮となっても御息所となっても変わらない。むしろ身を昇せてゆくほどに夏木を必要とする想いはつのる。

 夏木は、それを心から嬉しく思った。蜜に酔いしれ、進んで捕らわれる。潜む毒を恐れる気持ちは微塵もなかった。

「はい……清様……」

 誘惑に乗って、夏木は姫君に寄り添った。そこに迷いはない。里下がりの時間は限られている。遠くない先にはまた、主上のご寵愛を受ける姫君の傍近くでそのさまを目の当たりにしながら、かたじけないことと喜ぶ素振りを見せていなくてはならなくなる。

 里下がりの間、二人は引き離されていた恋人同士のように常に共にあった。一夜で別れを告げなければならない織姫と彦星のように。女房のなかには「御子をお産みあそばして、御息所と申し上げることとなったお方が軽々なお振る舞いを」とよく思わないものもいたが、言いたがるものには好きに言わせ、姫君は餓えるがごとく望むままに夏木を求めた。

 そして姫君は二月ほど療養して、再び後宮に戻った。

 里下がりの間に、右大臣が二の君を女御として宣耀殿に送り込んでいたが、主上はそれなりのご寵愛にとどめて中宮たる姫君の戻りばかりを待ち望んでいた。

 里居のつれない長さを嘆き、焦がれに焦がれた姫君の参内を主上はたいそう喜んだ。さっそく夜の御殿に呼び、芳しい肌を楽しみ、姫君のいない間の寂しさを訴えた。

「そなたのいない後宮は、花を落とした枝のごとく味気ないものだった……こうして変わりなく戻ってきてくれて、まろは嬉しく思う」

「はい……お待たせしてしまい、申し訳ございませぬ……」

 夜のことを終えて、姫君がしどけなく肩から滑り落ちていた衣を直す。まるで、もう朝は目の前だといわんばかりに。そのかたくなな姿さえ気高く美しい。

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