六畳間の敵

そうざ

Enemies in a Six Tatami Room

 網戸の向うからそよいで来るのは、無風という名の風だけだった。

 私は、六畳間の何処かから聞こえて来る耳障りな羽音の発生源を探ろうと目紛しく眼球を動かしていたが、闇の中では徒労以外の何物でもなかった。

 やがて、羽音は遠ざかってしまった。取り敢えず、薄っぺらい敷き布団に背中を戻すしか仕様がなかった。

 もう何度こんな事を繰り返しただろう――。

 傍らでは、今日も今日とてギャンブルに逆上のぼせた挙句に泥酔で帰宅した夫が、体臭を漂わせながら高鼾を掻いている。

 そもそも『敵』は夫の臭いに誘われて来たのだろうに、実際に被害に受けているのは私ばかりのようだった。とは言え、電灯を点けて本格的に応戦する訳にも行かない。夫の安眠を妨げる事だけは、絶対に避けなければならない。

 せめて蚊取り線香でもあればと思うが、私のパート代が全収入である我が家にとっては贅沢品だった。『敵』がうちの台所事情を酌んでくれる筈もない。この闇の何処かで、まだまだ私の血を啜ってやろうと北叟笑ほくそえんでいるに違いない。

 重たい置時計を引き寄せると、もう午前二時を回っていた。明日も早くから仕事なのに、睡魔にもすっかり見放されてしまった。

 苛立ちのまにまに、汗でべとべとになった肌をさすった。彼方此方あちこにに『敵』の執拗な攻撃を物語る無数の凹凸が刻印されていた。皮膚の感覚はほとんど麻痺していたが、それでも痒みだけは容赦なく私を揶揄からかい続ける。堪らずに掻く。その度に心がか細い悲鳴を上げる。それでも掻く。掻かずには居られない。ぬるっとした皮の残骸が爪の間に溜まって行くのが判る。私は、自分が血腥ちなまぐさい肉塊と化したような錯覚におちいった。

 何故、私だけがこんな目に合わなくてはならないのか――。

 その時だった。夫の高鼾の合間にあの忌まわしい羽音を聞いた。朽ちた身体とは逆に、私の頭は光源がなくても周囲を把握出来るまでに研ぎ澄まされていた。

 程なく、羽音は夫の額の上で静止した。気取られないようにゆっくりと上体を起こす。『敵』は醜く膨れ上がった腹を怠惰そうに微動させ、私を挑発していた。

 置時計を手に取る。これ程までに私を苦しめて来た相手には、掌ではなく、冷たく硬い鈍器がよく似合う。『敵』はたった一撃で大量の血を吹き出しながら息絶えるだろう。そしてその時、晴れて私は穏やかな眠りを約束されるのだ。

 私は全身全霊を込め、『敵』のに両腕を振り下ろした。

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六畳間の敵 そうざ @so-za

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