デイドリームデイ

@mugyuda

第1話 どこにも行けない

 子を起こさないようにとの気遣いから潜められていた両親の話し声が、どちらからともなく勢いづいて怒鳴り声に変わるまで、そうそう時間は掛からなかった。


 私は鬱屈として、かたく耳を塞ぐ。

 寝所を抜け出し、静かに引き戸を開けた。

(はやく全部が終わんないだろうか)

 玄関から庭へ出たい。古茶びた蔦模様の拡がる壁紙を横目になぞりながら廊下を歩いていると、途切れたその先で、兄が靴を履き替えていた。

「にいちゃん」

「お、思歩。出てきたのー」

 けろりとした顔で振り向くと、兄は、母さんたちうるせえよなー、と笑い白い息を吐いた。私は頷きながら兄の隣に座る。

「どこ行くの?」

 兄は青のダウンジャケットを着て、もこもこと着膨れしている。短い前髪では隠せない剥き出しの額だけが寒そうだ。

「自販機まで行こうかなって。おまえ、そんな薄着だったら寒いじゃん、外行くんだろ」

「お庭までだし、そんな長く居ないし」

「にいちゃんが心配。これ羽織っときな」

 ばさっと、カシミヤのマフラーを頭から掛けられる。兄の首元を温めていた熱がまだじんわりとこもっていて、とても暖かかった。

「ありがとう、にいちゃん、気をつけて」

「おー。なんか買ってくるわ」

 カラカラと引き戸の玄関を抜け、兄は颯爽と歩いて行った。


 にいちゃんは好きだ。やさしい。

 親は嫌いだ。うるさい。

 この数ヶ月、ずっと夜中に喧嘩している。何を話し合っているかは知らないが、折り合いがつかないならいっそもう離婚してしまえばいいのに、と私は思っているし、毎日毎日誰に見せるでもなく、ノートに書き殴っている。


 はやく出ていきたい。

 でも、核家族に生まれた14歳の子供にゆくあてはない。近所の人にも会わないので顔を忘れた。

 学校は親よりもうるさい。なんでも私の髪にメラニン色素が少ないのがいけないらしい。母の黒染めで髪を真っ黒にしてもひどく怒られた。そういうのをダブルバインドと言う、と教師に言ったら、教師は厚ぼったく紅を塗った唇の端を器用にも捻りこんにゃくのようにひん曲げた。

 その日からクラスメイトは、放課後掃除で集めたゴミをゴミ箱ではなく私の机に撒いて帰るようになった。


(やっぱりどこにも行けない)


 玄関のすぐ脇から家の裏へ伸びている、飛び石風の小径を歩く。敷き詰められた玉砂利が土に変わると、そこが裏庭の入口だった。

 私はどこにも行けない、けれどこの庭だけが、私を人や、時間や、記憶から匿ってくれる気がする。


 雨水の溜まった如雨露を持って、ハーブの植え込みを掻き分けて行く。レモンバーム、ローズマリー、オレガノ、ミント……根本に水を遣り、しっとりと土が湿るにおいを鼻孔いっぱいに吸い込んだ。ついでにラベンダーをひとつかみ摘んで、マフラーごしに、ぎゅっぎゅと握りこむ。

 もうすぐにいちゃんが飲み物を持って、帰ってくるだろう。そしたらマフラーを巻いてあげよう。にいちゃんが眠れるように魔法をかけたんだよ、と言って。


 けれどそれはかなわなかった。

 にいちゃんが帰るより先に、母が庭へ来たからだ。


 折り合いが、ついたらしかった。

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