第3話 第一王子派

「どうしよう……助けて、助けてください!」


 第二王子に聞こえるよう大声で叫んだつもりだったが、口から出た声は自分でも泣きたくなるぐらい小さかった。


「助けて……」


 巨大ナメクジは頭を持ち上げて突起物を伸ばしてきた。スウミの顔の近くまで届いたそれを手ではねのけるのも躊躇われて、靴を脱いで投げつけた。しかし、ナメクジは驚くほど素早く首を傾げるようにして避け、靴を投げたスウミの右腕にぶちゅりと音を立てて食らいついてきた。


「いっ、痛い……痛っ!」

 肘のあたりまでナメクジの柔らかな頭に吸い込まれた。何か粘つくものがまとわりつき、擦り傷がしみる。じりじりと皮膚が焼かれるような痛みだった。スウミは叫びながらがむしゃらに腕をひっぱったが、ナメクジの吸い込む力は強力でびくともしない。気づけば肩近くまで飲み込まれていた。このままでは顔が飲み込まれるのも時間の問題だ。生きながら食われるという恐怖感で気が変になりそうだった。


 そのとき、空が光った気がした。ついに正気を失ったのかと自分を疑ったスウミだったが、巨大ナメクジがぶるりと震えて、腕を吸う力が弱まった。


「腕を抜け。早くしないと腕ごと切り落とす」


 この声の主は誰だろうと考える余裕もなく、スウミは一気に腕を引き抜いた。それと同時に剣が薙ぎ、ナメクジを縦に切り裂いた。

 地面にくずれて液状になっているナメクジの向こうに、淡い色の髪の冷酷そうな男が立っていた。手には剣をさげ、切っ先から粘液をしたたらせている。

 この人が持つ剣のきらめきが、さっき空が光ったように見えたのだろう。


「あ、ありがとうございます、助けていただいて……」

 真っ赤に腫れ上がった腕から粘液を払い、まだ震えがおさまらないまま慌てて頭を下げると、

「おまえは貧乏貴族の愛人の娘だな?」と、男はいきなり言い放った。

「え、あの、そう、ですけど」

「助けて損した」

「えっと?」

 この無礼な言いよう、その冷たい声、聞き覚えがある。改めて顔を確認するまでもない。第一王子であるエルド王子だ。まさかこんな形で再会することになろうとは。命を救ってもらって感謝すべき状況なのだが、どうもおかしなぐあいだ。

「おまえに貸しを作ったところで何の得もない。まったく気分が悪い。無駄なことをした」

 吐き捨てるように言ったかと思うと、王子はずんずんと歩いていってしまった。呆然と見送るスウミに、「何をぐずぐずしている」と、振り返りもせずに叱責してきた。

「置いていくぞ」

「ま、待ってください!」

 スウミは投げた靴を拾ってから、慌ててエルド王子を追いかけた。




 王子は迷宮の順路を熟知しているようで、迷うことなく出口にたどり着いた。バルコニーとは正反対の位置、王城の門に近いほうから外に出られた。あたりにはかがり火が焚かれ、歩哨の兵士たちが鎧のこすれる音を立てながら行き来していた。


(ああ、本当に助かったんだ)


 思わずその場に崩れ落ちそうになるのをこらえて、深く息を吐いて気持ちを整えてから、エルド王子に向かって改めて頭を下げた。

「助けていただいて本当にありがとうございます」

 失礼なことも言われたような気もするけれど、助けてもらったことは事実なのだからお礼はちゃんと言うべきだ。しかし、王子はすごく嫌そうな顔をした。

「まったく不愉快だ」

 そんなことを言われても、どうしたらいいのかわからない。

「あの、すみませんでした」

 エルド王子はこめかみを指で押しながら、「謝るな。恩返しをしろ」と言った。

「恩返し、ですか」

 王子は深いため息をついた。

「おまえはこの第一王子に借りができたのだ。意味はわかるな?」

 スウミは顎を引いて、少し考えた。

「……つまり、私はどのような命令も従う義務があると?」

 エルド王子は口の端を上げた。

「頭は悪くないようで安心した。いいか、俺は善意で人助けをするような人間ではない。おまえの一族に貸しを作っただけのこと。つまり今日からおまえは第一王子派になったということだ。まさか拒否はしないだろうな?」


 うちみたいな貧乏貴族、普通に考えれば味方にしたところでエルド王子には何の得もない。なら、王子の目的ははっきりしている。きっとひどいことをやらせる気なのだ。普通の貴族には命令できないような損な役回りを。だが、ここで拒否すれば第一王子を敵に回すことになる。

 どちらにしたってろくなことにはならないのだ。それならば……。


 スウミは深呼吸して、姿勢を正した。


 ――お父様、勝手なことをしてごめんなさい。


「命を救っていただいたこと、どれだけ感謝してもしきれません。喜んで第一王子派となり、恩返しをいたします。もし戦争となれば、必ず第一王子の召集にお応えすると誓います」

 このセラージュは、海を隔てたランガジル国と開戦と停戦を繰り返しており、今は停戦中だ。しかし、いつどうなるかわからないのがセラージュとランガジルの宿命である。それに霜ノ國フロスデンという北の大陸とも不穏な関係にあった。


 スウミが覚悟を決めて誓いを述べたというのに、エルド王子はふんと鼻で笑った。

「貧乏貴族を戦争時に頼る気はない。どうせ大した戦力にもならん」

 いきなりの戦力外通告に複雑な気持ちになった。でも、うちは貧乏なのは事実なので、そう言われても仕方がない。デルファトル家には私兵や武具を集めて王家に献上するような財力は残っていないのだ。


「おまえのような訳ありに頼むとしたら、もっと別の……いや、今はいい」

 王子はあたりを見回して、言葉を濁した。誰かに聞かれたら困るようなろくでもないことをお考えなのでしょうねとスウミは心の中で毒づいた。まさかとは思うが、暗殺を命じられたらどうしよう。

 王子がすっと目を動かし、まっすぐ見つめてきたので、どきりとした。思わず背筋が伸びる。人を緊張させる鋭さを秘めた瞳だった。


「今日からおまえは第一王子派となったわけだが、別に俺を裏切ってもいい」

「えっ?」

 言われた意味がわからず、スウミは戸惑った。王子の真意が掴めなかった。

「だが国は裏切るな。おまえは貴族なのだから慎重に行動し、国と国民のために最良の選択をしなければならない。俺につくにせよ、弟につくにせよな」

 戸惑うスウミを残して、王子は王城へと戻っていった。



 エルド王子と別れた後、スウミは預けた馬を引き取るために王城のうまやへ行こうとしたが、あまりに広くて迷ってしまった。

 衛兵に道を尋ねるのも気後れしてしまい、気づけば随分と王城の奥深くまで来てしまったようだ。このあたりは燭台の火もほとんど消えている。


 誰もいない薄暗い廊下を俯いて歩く。廊下がどこへ続いているのかもわからない。


(このまま王城から出られなくなったらどうしよう。飢え死にするかも。その前に凍え死んでしまうかもしれない)


 腕の傷がじくじくと熱を持ってきた。

 しばらく進むと、どこかからか人の話し声が聞えてきた。廊下の角を曲がった先に人がいるようだ。ほっとして近寄ってみたら、エルド王子とイスレイ王子が立ち話をしているところだった。スウミは慌てて柱の陰に隠れた。


「兄上のせいで、せっかくの遊びが台無しだよ。あれ高かったのに、斬り殺すなんてさ」

 イスレイ王子が兄の肩に腕を回すと、エルド王子は、緩慢な動きで手を振り払った。

「王城にモンスターを放つなど一体何を考えている」

「パーティーの余興にいいと思ったんだよ」

「なにが余興だ。王家の信用を傷つけるようなことをするな」

「はいはい、わかってますよ。今日のはちょっとした悪ふざけ。もしあの子が殺されそうになったら僕が助けにいくつもりだったんだ」

「ふん、どうだか」


 もしやこれは盗み聞きというやつなのではないか。スウミは後ろめたい気持ちになった。でも、今動いたら気づかれてしまいそうだし、息をひそめてじっとしていることにした。


 エルド王子の声は低いけれどよく響くから何を言っているのか聞き取りやすかった。でもイスレイ王子のどこか笑うようなやわらかい声は輪郭がぼやけていた。さっき自分を殺そうとした男の声だと思うと、優しげな声なのがかえってむかむかとする。


「兄上が無事で良かった」

「それは本心か?」

「もちろんだよ。それはそうと兄上、体調はどう?」

「何のことだ」

「きょうはお忙しくされていて、その上モンスター相手に立ち回りまでやったから、きっとすごくお疲れだよね。ここだけの話だけど兄上は虚弱体質だという噂が……。もし兄上が玉座を継いだらお体がもたないのではないかと心配する貴族も多いとか」

「くだらん噂だ」

「そうだよね。兄上は健康に問題がないって僕は一番よくわかってるよ。だって子供の頃は健康だったし。あれ、ちょっと顔が赤いね。熱でもあるのかな。そういえば肩も燃えるように熱かったような? きっとあの貧乏娘との情事の名残だよね。兄上もついに女遊びをされるようになって、弟としては喜ばしい限りだよ」

 エルド王子は否定も肯定もしない。

「明日の会議は出られるんだよね?」

「もちろんだ」

「あんまり無理しないほうがいいよ。無理なんてしてないのはわかってるけど。疲れて公務を休むなんて、次期王としての資質が疑われるようなこと、兄上はしないよね」

 くすくすと笑いながらイスレイ王子はエルド王子から離れた。


「さて、飲み直すとするか。パルナエ、宴の準備だ」

 呼ばれて柱の陰からメイド服姿の若い女があらわれた。物陰に潜んでいたのはスウミだけではなかったようだ。

 彼女はエルド王子に一礼すると、弟王子に向かっておずおずと問いかけた。

「イスレイ様、あの、宴の準備といいますのは……例の女性たちをお呼びするということでしょうか」

「ほかに何があるんだよ。さっさとしろ、グズ」

 メイドは泣きそうな顔をしてかぶりをふった。後ろでゆるく三つ編みにしている赤い髪の先端がはねた。

「嫌……です。私、嫌です……」

 イスレイ王子は舌打ちすると、

「じゃあ、いいよ。ほかのメイドにやらせる。おまえは本当に役立たずだな」

 そう吐き捨てて行ってしまった。

「そんな……」

「パルナエ、イスレイを追え。あいつが道を踏み外さないようそばで支えろ」

 エルド王子がうんざりとした声で指示すると、彼女は深々と頭をさげてから第二王子を追いかけていった。




 エルド王子も行ってしまうのを待ってから、スウミは柱の陰から出た。


 さっきの会話、あまり意味がわからなかったけれど……。ただ、こっそり顔を盗み見た感じでは、イスレイ王子は兄に対して強い敵意を抱いていることだけはわかった。

 エルド王子のほうはスウミの位置からは顔が見えにくくて表情がよくわからなかったが、弟をどう思っているのだろう……。

 いや、今はそんなことより、早く自宅に戻って、第一王子派になったことを父に報告しなければ。

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