私たちのいる世界

@kisaratumugi

オープニング

夜道は暗く濁っていた。

それに対するように、ガードレールの奥に広がる街は煌びやかに光っている。

そこで過ごす人は……仕事に追われているのか。それとも家庭で暖かな日常を紡いでいるのか……わからない。

わからないけど……。

「綺麗だね」

そう呟く彼女の顔はにこやかに。私がしないようなくらい幸せそうな顔で覗き込んでいる。

そんな彼女がこの風景に対して感動していることだけはわかる。

灰色のパーカー。ぶかぶかとした男の履くようなジーパン。確実にそれは「恋人」のする格好ではない。

「そうですね」

そう呟く私の声は、ぎこちなくはなかっただろうか。

咲真珠音。さくまたまね。それが私の名前。珠のように綺麗な音を鳴らすような人生を紡げるように。そんな意味が込められている。

目の前で風景を眺めるのは照野秋。私の尊敬する……私の目標とする場所にいる。そんな彼女。

誰よりも、何よりも愛している。

それはきっと、人が神様に心酔するような。そんなものと同じだろう。私はそれくらい彼女の事を愛している。

「先輩」

私はその景色を見たまま、横にいる秋先輩に声をかけた。

「なあに?」

「先輩は、こんな日常でいいですか?」

答えづらい質問。そんなことはわかっているけど、彼女ならきっと私の納得するような答えを出してくれるだろう。

ただ。

「……いいよ。あむちゃんがそれでいいなら」

私の思っている答えじゃない。思っていたよりも……ずっと単純な答えが返ってきた。

「そうですか」

適当に放った言葉のつもりが、それは何より冷たく、暗い光を持っていた。

私はゆっくりとポケットにしまったカッターナイフを取り出す。

カチッ。カチッ。

刃が伸びるたびに。無機質な音が静かな夜道に響く。

照野秋は、それに気づいていないのか。はたまた気づかないふりをしているのか。

……わからない。

私は彼女のように頭が良くない。

でもきっと彼女は、頭がいいから、私なんかよりもずっと優れているから。きっと新しい答えを見つけ出すだろう。

それでも。

今できるのは。私が今できるのは。

これが精いっぱいだ。

「先輩」

もう一度彼女の名前を呼ぶ。

「……」

今度は何も、返事を返してこなかった。

きっと。気づいているんだろう。

ごくりとツバを呑む。苦い。

何でこんなに苦いんだろう。涙もあふれて来た。なんで。なんで。なんで。

振り向かない彼女に向って。

カッターナイフを振り下ろす。

「先輩。愛してます」

思ったよりも固く。それは突き刺さった。

「あっ」

秋先輩が苦しそうな声を上げる。

ただ、それだけで。

まるで夢を見ているように視界がぼやけていく。

何度も、何度も突き立てる。

それでも彼女は何も言わない。何も答えない。

「この日常を壊せ」

私の中でそう誰かが囁いている。低い声で。私の大嫌いな声。低くて聞き取りづらい。どうにも形容できないその不愉快な声。

壊す?いや。違う。今私がしているのは。

作っているんだ。

私の。

私たちのいる世界を。


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