03.黒ずくめ。

 一人で夜道を歩くことの開放感を味わいながら、俺は大通りを過ぎた。

 自宅に近づくにつれて家はまばらにはなっていくものの、光の灯った家は続いているため、ランプも必要ない。

 一件の家を通り過ぎると、肉の焼けるいい匂いがして、晩メシはなんにしようかと考えながら歩いていると。


 カツン。

 コツン。


 遠くから、足音が聞こえた。ヒールの音だろうか。女性の足音がこっちに近づいてくる。


 カツン。

 コツン。


 しかし、少しすると感覚が徐々に短くなり。


 カツッコツッ

 カツッコツッ


 なんだと思う間に、その足音は徐々に近づいてきて。さらに足音の感覚は狭まり始める。


 カッカッカッカッカッカッ


 誰かが、来ている。なぜ急いでいるのかはわからないが、妙な悪寒がしてブルリと身を震わせた、その直後。



「いやあああああああ!!」


 突如、暗闇の中から叫び声がし、引きつった形相の女が現れた。

 一瞬戸惑った俺のすぐ隣を、女は猛スピードで駆け抜けていく。

 どうしたんだと思った瞬間、黒づくめの若い男が目の前から走ってきた。俺なんか目にも入っていないのか、女目掛けて一直線だ。

 意味のわからぬまま、すれ違った男の方を振り返る。

 しかし女の姿は既に暗闇に消えて見えず、男の方もすぐに闇に消えてゆく。その数秒後。


「ギャアアアアアアアッ」


 闇をつんざくようなけたたましい女の声が、肌に直接ビリビリと訴えた。


 断末魔。


 一瞬のうちにそんな言葉が浮かんでくる。

 ゾゾッと背筋が凍り、慌てて近くの家の扉を叩いた。

 俺は奴の顔を見てしまった。戻って来る可能性が高い。


「すみません、開けてください!!」


 ドンドンと扉を必死になって叩く。

 家の中に入らせてもらわなければ、死ぬ。殺される。

 取っ手を引っ掴んでガチャガチャと回すも、鍵が掛かっていて開きそうもない。


「開けてくれ、開けろ!!」


 ガンガン叩いても反応はない。中に人はいるはずなのに、ふざけるなと焦燥にかられる。隣に移って別の扉を開けようとするも、結果は同じだった。


「頼む、開けてくれ、開け……」


 ヒタッ。


 なにかの気配がして、ヒュッと息を飲む。

 嘘だろ、と言いたかったが、一瞬にして喉がカラカラに乾いて出てこなかった。

 そこには、俺を見て笑っている、黒ずくめの男。

 いや、笑っているかなんて遠目の暗がりではわかるはずもない。ただの妄想かもしれない。

 けど、俺には笑っているように感じた。

 こいつはやばいと俺の脳内から警鐘が鳴り響く。

 その男が一歩踏み出したかと思うと、俺を標的にいきなり走り出した。


「ーーーーーーッ!!」


 俺は声にならない声を上げて飛び上がると、自宅の方へ駆け出す。

 騎士のいる屋敷の方へ戻りたかったが、あいにくそっちの方面は黒ずくめがやってきていて不可能だ。

 なにか叫びたくとも声は出ず、とにかく追いつかれないように全力で駆け抜ける。

 変な汗がそこら中から吹き出て、一瞬にして全身が雨に濡れたように衣服が絡みついた。


「ふふぁは、ふふふぁふぁふぁ……っ」


 変な笑い声が、猛スピードで迫ってくる。

 走りながら後ろを振り返り、確認した。そして、確認したことを後悔した。

 黒ずくめの男は、真っ白い顔に血しぶきを浴びて。

 ニタニタ笑いなから俺を追いかけ、ついそこまで追いついている。


「ふぁはは……ふぁは、ふぁはははふぁは!」


 気味の悪い笑い声を聞くと、肌や髪の毛が勝手に逆立った。

 足はがむしゃらに動かしているものの、ちゃんと地を蹴っているのかどうかすらわからない。

 とにかく俺はなりふり構わず走った。本能が立ち止まるなと教えてくれている。

 目や鼻、ありとあらゆる穴から水がわんさと滴り流れ飛んだ。


「ふひゃ、ふぁはっ!」


 頭のすぐ後ろで聞こえる奴の声。

 捕まったら、死ぬ!

 男はものすごい速さで迫ってきていた。このままじゃ、殺されてしまう。

 必死に足を回転させる俺の視界に、いつものT字路が入ってくる。

 右に曲がるか、左に曲がるか。

 帰り道は右だ。けれどもそっちに行くと、さらに家の数が少なくなる。

 誰かにこの状況を知らせなければ。そして保護をしてもらわなければ。

 考えたのは、一瞬だけ。あとは本能が叫ぶように行動を起こしていた。


 行くしか、ない。


 俺は飛ぶようにして、正面の家の扉へと蹴りをぶち込んだ。


 バキッと音がして、扉はバフンと音を立てて内側に倒れる。

 普通に開けては鍵が掛かっているに違いなかったから、こうするしか方法はなかった。

 誰かに助けてもらいたい一心だった。


「な、なんだ?!」

「はぁ、はぁ!」


 ろくな説明もせず民家に入り込んだ俺に、家主の男とその家族は目を白黒させている。

 説明などしている暇もなく、勢いのまま家の奥へと素早く上り込んだ。


「おい、なにしてるんだ、君は?!」


 俺が玄関の方を震える指で差すと、既に黒ずくめの男はこの家に入ってきていた。

 倒れた扉の上で、血しぶきを浴びた顔が笑っている。その手には、使ったばかりであろう短刀が握られていた。


「きゃあああああああ!!」


 部屋の奥にいた、家主の妻であろう女性と二人の子どもたちが黒ずくめの男を見て悲鳴をあげる。


「貴様、市中でそんなものを振り回していいと思っているのか!」


 家主は勇敢にも椅子を持ち上げて黒ずくめの男に殴りかかっていった。

 バーーンと音がして、椅子の足が折れて欠けらが飛び散る。家主の椅子攻撃を食らった男はよろめき倒れた。

 ようやく俺の凝り固まった筋肉が弛緩し、ホッと息を吐く。しかしそれも束の間だった。

 倒れた男の短刀を取り上げようと家主が近付いた瞬間、黒い塊がまるで糸で操られたかのようにムクリと起き上がったのだ。


「ふぁ、ふぁはっ! ふぁは!」


 どこか喜んでいるようなその声に、再び俺の体は凍りつく。


「貴様っ! その短刀を捨てろ!」

「ふぁはあは!」


 そんな言葉など聞くわけもなく、男は短刀を家主に向けて体ごとぶつかる。


「あ、あなたぁ!」

「きゃあああ!!」

「父さーーん!!」


 家族の悲鳴が家中に響いた。

 一瞬刺されたかと思ったが、家主は体を捻らせ、短刀を持つ男の手首を上手く掴んでいる。しかしそこからは膠着状態でなにもできない。


「おい、そこのお前!! 手伝え!!」


 荒々しい家主の声が飛んできて、俺の体はビクッと震えた。

 手伝いたいと思うのに、体が萎縮してしまって動いてくれない。


「くそ! フィオナ、サイラス隊長を呼んでこい!!」

「は、はい!!」


 動かない俺にしびれを切らしたのか、彼は妻にそんな指示を飛ばした。

 フィオナと呼ばれた彼女は、揉み合っている二人の隣をこわごわとすり抜け、倒された扉を踏みつけて外に出ていく。その姿を、白い顔に血みどろの黒ずくめが口の両端を上げて見送っていた。


「てめぇ、人の妻をそんな目で見るんじゃねぇぞ!」


 家主がそう話しかけた瞬間、グルンと首は回されて家主の方に向けられた。

 そして家主に掴まれた手を離そうと、暴れ始める。


「っち!大人しくしやがれ!!」

「ふぁ……ふぁは……」


 黒ずくめは『もうこのオモチャ飽きた』と言わんばかりに冷たい目をしたかと思うと。


「な……っ?!」


 一瞬身を引いた瞬間に家主を蹴り上げる。緩んだ手の拘束から逃れた黒ずくめは、瞬く間にその短刀を振り抜き──


「ぎゃあああああああああっ!!!」


 家主の首を、躊躇もせずに掻き切った。


「いやーーーー!!」

「父さんーーーーッ!!」


 俺のそばでは、泣き叫ぶ子どもたちの声。


「ふぁは、ふぁはは!!」


 一瞬にして床は血まみれになり、家主はピクリとも動かない。

 白い顔をさらに赤くした黒ずくめは、泣き叫ぶ子どもたちの顔に焦点を合わせた。

 まずい、こっちに来る。

 そう思ったが男はグルンと振り返って、元来たドアの倒された玄関から出て行った。

 良かった、こっちに来なかった。しかしあいつはどこに向かったというのか。


「お、お母さん……」


 小さな女の子が涙で顔をグチャグチャにしながら呟く。


「母さんが危ない!」


 その子の兄であろう少年が駆け出そうとして、俺は少年の手首を掴んだ。

 行ってはダメだ、危ない。危険過ぎる。


「なにするんだ、離せよ!! 母さんが、母さんが!!」


 なにかを言いたかったが、やはり俺の声は出ずにどうにか首だけを横に振る。あんな奴のところへ行くなんて、殺されに行くようなものだ。


「離せ、離せよ!! 母さん、かあ……」


 その瞬間、鳥の鳴くようなよく響く声が、ランディスの街に響き渡った。

 フィオナという女性の声がどんなだったかは思い出せないが、本能的に悟る。彼女は、この子たちの母親は、殺されたのだと。


「おに、ちゃ……今の……お、お母さんの……」

「ち、違う! 絶対に違う!! 母さんも父さんも、死んでな……」


 そう言いながら少年が目を移した先には、彼の父親の亡骸。

 少年はよろめきながら、その遺体に近寄る。


「うそ……だよな、父さん……? だって、だって明日は一緒に釣りに行こうって……帝都の湖畔が綺麗だから……みんなでボートに乗ろうって……っ」


 声を震わせながら、血色の消えた父親の頬をそっとつつくように触っている。

 なんの反応もないことがわかると、少年の涙は堰を切ったように溢れ出した。


「父さん……父さん……っ!! 父さん、目ぇ覚ましてよ……約束、しただろ……! 父さんは約束を、絶対に破んないんだろ!?」

「ふえ、ふえぇぇぇえ!!」


 必死な兄の様子を見て、妹の方も何かを察したのだろう。

 途端に声を上げて大泣きを始めた。


「父さんーー!!」

「うわああん、うわああああん!」


 家中にこだまする、絶望の叫び声。

 しかしそれは長くは続かなかった。

 さらなる絶望で、塗り替えられてしまったから。


「ふぁは。ふぁはは、あは!」


 子どもたちの泣き声がピタリと止む。

 そこには、顔じゅうが真っ赤になった黒ずくめが立っていた。

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