第2話

芙蓉は秘密を誰にも言えぬまま、受験勉強をした。

 柳原君への想いはますますつのっていくが、自分は穢れた身であるから柳原君に想いを打ち明けることなど出来ないと思った。

 せめて、柳原君が東大に行くのなら自分も東京に行きたいと、京都の短大をやめて、東京の短大に変えた。

 ところが、蓋を開けてみると、柳原君は東大の理3をやめて、京大の工学部にはいっていた。芙蓉は今更どうすることもできず、母と上京して女子専門の下宿を決めた。葵は地元の国立大学に入って意気揚々としていた。

 芙蓉の母は、担任の杉野先生にお礼に行かなければならない、あなたが大学に入れたのは先生のご指導の賜物なのだからと言った。芙蓉はそんなことはしなくていいと言ったけれど、母は先生に似合いそうなネクタイを買って、有無を言わせず、芙蓉を連れて先生のお宅に伺った。

 杉野先生は恐縮しきった様子だった。

「いやいや僕の力というより、芙蓉さんがまじめに勉強されたので、通ったのです」と言って、髪をかき上げた。母の後ろで隠れるように立っている芙蓉をちらっと見た。その時の目は、恐怖におびえている目だった。芙蓉もまた恐怖におびえていた。

 葵は葵で、芙蓉が東京に行く前にもう一度先生の所に遊びに行こうよと誘ってきた。芙蓉は断わる理由が立たず、葵の後ろについていく羽目になった。

「紺野も高橋も、志望通りの所に入れてよかったな」

「せんせのおかげです」と葵は目をうるませている。

「紺野は初めての親からの独立、それに東京は気候も違うし健康に気をつけろよ」と先生はあのことはなかったことのように、何の感情も表さないで言った。

 芙蓉の方は、なかったことにしようとしても、しきれなかった。あの時の衝撃が、体をさいなんだ。幸いにして、月のものは順調にやってきた。表面上は何にも変わったことはない。けれど、あのことはしっかりと体に刻み込まれていた。もう取り返しがつかない。柳原君に申し訳ない、柳原君に捧げたかったと身勝手な思いとも思わず、夜中にひそかに泣き崩れた。

 先生のあのかたくなな一線を崩さない態度は、先生にとっては本当に一時の出来心だったに違いない。その方が自分にとってもいいことなのだけれど、あまりにも冷静にかたくなにふるまえるのを見ると、物足りなく感じる時もある。自分はたったそれだけの価値しかなかったのかと。先生の面前で、我慢せずに泣き崩れて、いたわられたい。

 しかし、気を取り直すと、そんな思いは柳原君を侮辱することだと思うのだった。また、葵の先生への想いが純粋で激しいだけに、葵に気取られて葵を絶望に落としてはいけないと思うのだった。自分は誰にもそのことは言わない、そして先生も平静で、何事もなかったことにしているから、そうしていれば、世間ではなかったことになり、誰をも傷つけないと思うのだった。理屈はそうだけれども、芙蓉はどうしてもなかったことにできなかった。

 桜の花が開くのを今か今かと人々が待ち望み、暖かい春の陽が人々を幸せにする時期なのに、芙蓉は屈託していた。柳原君が東大に行くという噂を信じて自分も東京の短大に変えたのに、柳原君も心が変わって京大になった。東大の理3という噂で、医学部に進むのかと思っていると、工学部に変わっていた。その行き違いは今ではどうもできない。

 芙蓉は身の回りを整えて、東京に移った。


                (2)

 

 大家さんは、戦争未亡人だった。彼女は敷地内の離れの方に会社勤めの一人息子と住み、広い母屋の方を三人の女子学生に貸していた。芙蓉は、二階二部屋、下一部屋のうちの二階の東向きの部屋を借りた。

 あと二人の住人の内、一人は四年生大学の四回生だった。下の階の西の部屋にいるのは、芙蓉と同じ短大の二回生だった。

 芙蓉はまず隣の部屋にいる四回生の梶原響子さんの所に挨拶に行った。

「まっ、今度来た人?T短大に入ったのですって。上がって」と言っていきなり部屋に招じ入れられた。

 出窓のある洋室にベッドが置かれ、ピンクのフリルのついた小花模様の可愛らしいベッドカバーが掛かっていた。そのそばには、洋風の背の高い電気スタンドがあった。芙蓉は一人掛けのソファーに座り、響子は勉強机の椅子に腰かけた。

 部屋には香水の香りが漂い、響子は綺麗に化粧していた。

「私これから出かけるの。夜遅く帰ってくると思うけど、気にしないでね。もう私、3年生のうちにほとんど単位とったので、今年は卒業論文とあと二科目とったらいいの。私フランス語専攻だけど、あなたは何?」

「私は国文です」

「あら、そうなの。折角なら外国語とった方がいろいろ面白いのに」

「はあ」

芙蓉は思ったことをつけつけいう響子に驚き、これが都会というものかと思った。

「これから、あなたにもいろいろお世話になると思うけど、よろしくね」

と言って、コーヒーをサイフォンで入れてくれた。粉のインスタントコーヒーしか家では飲まなかった芙蓉は、これが上流社会というものかと恐縮した。

 芙蓉は自分の部屋に帰った。芙蓉の部屋は和室で、布団を敷いて寝ることにしていた。お化粧はまだしたことがなかった。

 階下の台所は、三人で共同で使うことになっていた。

 芙蓉はご飯を炊くために台所に降りて行った。

 すると下の住人が、お鍋を洗っていた。同じ短大の二年生の人だった。

「今度来ました紺野芙蓉です。さっきご挨拶に行ったのですけど、お留守だったので失礼しておりました。同じ大学の国文科に入りました。よろしくお願いしますね」

「あら、あなたが?大家さんには聞いていました。私は英文科ですがよろしくね。私は鈴原美鈴です」

 美鈴は、芙蓉と同じに化粧っけはなかった。

 これから仲良くできそうだった。

 ご飯を炊いて、簡単なおかずを作って、明日の大学への持ち物を整えて、眠りについた。

しばらくすると、階段をギシギシいわせて上がってくる足音がした。足音と同時に話し声と忍び笑いの声が聞こえた。すぐに隣の部屋の鍵を開ける音がした。

 ひそひそと話している声が壁を通して聞こえてきた。一人は男性の声だった。

 寝ぼけていた芙蓉の頭はだんだんと冴えてきた。響子とボーイフレンドが、長ーく優しく睦みあう声がかすかに聞こえてくる。芙蓉は体がほてってきた。体が何かを求めているようだった。柳原君を求めていた。響子とそのボーイフレンドのように、二人でやさしく睦みあいたかった。先生の行為は固く唐突で、一瞬が過ぎるとすぐ拒絶しほうり出されたと感じた。それでいいのだ。それで自分は救われたのだ。何事もなかったのだ。と、何度も自分を欺こうとした。平静を装っている芙蓉に、周りの人は以前と同じ感じで接している。忘れさえすればいいのだと芙蓉はなるべくあのことは考えないようにしていた。

 だが響子とボーイフレンドの気配は、体の内から自然に盛り上がってくる自分ではわけのわからない欲求を誘い出していた。その瞬間誰でもいい誰かに抱かれたいと感じた。

 翌朝、着替えてミルクを沸かそうと台所に降りると、手前の玄関で響子がボーフレンドを送り出すところだった。スーツを着た会社員風の後ろ姿のすがすがしい人だった。

 芙蓉の姿を見つけると、響子は

「ねえ、お願い、大家さんには内緒にしておいてね、言わないでね」と言って両手を合わせた。

 芙蓉は「勿論ですわ」と首をかしげてしおらしく応じながら、昨日挨拶に行った時、初めてなのに部屋に通してくれて、「よろしくね」と言った意味が分かった。


 はじめは緊張していた短大にもだんだん慣れてきた。高校までは同じ教室にいれば、先生が入れ代わり立ち代わり向こうからやってきてくれる。大学では自分の専攻した科目のある教室に自分から移動していく。クラス担任の先生もいないので、初めは頼りなかったが、月日を経るごとにその自由さが芙蓉を大胆にしていった。

 気の合った仲間で「今日は私設祭日にしよう」などと言って、銀座「みゆき座」に行って名画を見る。終わったら喫茶店に寄ってケーキを食べておしゃべりに花を咲かす。そんな時の案内役は東京の子で、ぬくぬくと両親に守られてお小遣いも豊かな、芙蓉から見ると何の苦労もなさそうな子だった。芙蓉も一緒になってはしゃぎながら、ふっと、この子たちは、何の屈託もないのだろうなあ、と我に返ったりする。でも、その子らと遊んでいる時は、過去の汚点から解放されていた。

 同じ下宿の鈴原美鈴は、二回生で卒論もあり、新潟の長岡の裕福な農家出身で、堅いぐらいまじめな性格の上に、英語をしゃべれるようになり、イギリスに行ってみたいという夢があり、ひまがあればNHKの講座を聞いていた。

 大家さんは、月に一度三人の下宿生をお茶に呼んでくれた。響子は芙蓉と美鈴にボーイフレンドが来ていることを内緒にしてねと頼んでくる。美鈴も芙蓉も異存はなく素直に響子の願いを受け入れた。

 響子は夕方になると念入りに化粧をして長い髪をカールし、真っ赤なハイヒールを履いて出かける。芙蓉はそれを見て自分が田舎者だと思い知らされた。化粧に二時間近く時間をかけている響子は、きれいだった。いつもきれいにして、会社員のボーイフレンドの退社時間に向けて出かけているようだった。深夜、酔っぱらったような二人のひそひそ声が階段を上がってくる。ドアの閉まる音がして、かすかに二人の吐息が聞こえてくる。

 芙蓉は柳原君を想った。今響子のように肌近くに柳原君を感じたい。しかしやはり自分はもう柳原君を想う資格さえないのだと思う。

 夏休み家に帰った芙蓉の所に、葵が真っ先にたずねてきた。葵の大学生活は順調そうだった。ワンゲル部に入り、近くの山をつぎつぎと男女七人の部員で登っているらしい。

「みんな素晴らしい山男よ。受験勉強ばかりしていた高校時代を思うと、もう世界が変わっちゃった」

「へえー、目から鱗!私は女子大だから女ばかりで固まって遊んでる。うらやましい気もするわ」

「芙蓉ちゃんは、未来は病院の奥様だもの。あらくれ男と知り合いにならなくてもいいのだわ」

「あらくれ男って?」

「いやいや、勢いでそんな言葉になったけど、そんなのじゃないよ。みんな紳士的よ」

「そう、いいわね」

 不意にあの時の衝撃と痛みが体を突き抜けていった。

けれど、芙蓉は何事もなかったように葵の前でじっとしていた。

「芙蓉ちゃん、あさってね、今井君たちがせんせの所に集まるらしいのよ。みんな夏休みで帰っているって。久しぶりだから行かない?もうめったに全員で会えないもの」

 芙蓉は、行くとも行かないとも言わず、身じろぎもしなかった。

 葵は不思議に思い、

「何か用でもある?」と聞いた。

芙蓉は慌てて、「ううん、行くわ」と言った。

 今あっておかないと、もう永久に柳原君に逢えないかもしれない。

杉野先生のことはもうこだわらなくてもいいのだ。先生自身があのようなすげない態度をとっているのだから、なかったことにしてあげればいいのだ。

 芙蓉の柳原君への想いは、何ものにも代えがたかった。

芙蓉はその日花柄のプリント地のワンピースを着ていった。芙蓉は響子の真似をして、突然化粧に時間をかけ香水の香りをほんのり漂わせた。花柄のワンピースは、ノースリーブで谷間が見えそうなほど胸のあいたものを着ていった。

 葵はジーパンにTシャツで、ノーメイクだった。

 すでに男子たちは来ていて、話がはずんでいるところだった。

「おっ!久しぶり!」と今井君が二人に声をかけた。

「今井君、大阪はどう?」と葵が聞いた。

「いいよ、大阪は。楽しい所だわ」と、今井君は言って、

「紺野は、東京はどうなんだ」と芙蓉に話を向けてきた。

「東京はやっぱりすごいと思うわ。自由よ。コンサートでもなんでもともかく一流のものが見れるもの」

「一遍行ってみたいな。行ったら泊めてくれる?」

「無理よ。私の下宿は男子禁制」

芙蓉が一番話しかけてもらいたかったのは、柳原君だった。

柳原君は、ただにこにこと笑って、芙蓉を見ていた。

杉野先生は緊張した面持ちで目を宙に浮かせていた。

芙蓉は勇気を出して言ってみた。

「ねえ、柳原君の京大はどんな感じなの?」

「そんなことお前わかってるじゃないか。超秀才の集まりだから、奇人変人の集まりよ。なあ」と今井君は柳原君に向かって言って一人で悦に入っていた。

「いやいや、そんなことはないよ。普通だよ。でも、びっくりするような頭のいい奴がいっぱいいるわ」

「そうなの、素晴らしいわね」と言って、芙蓉は顔を赤らめた。

 初めて口が利けたのだ。せんせとは何もなかったのだ。せんせも忘れてほしい。忘れるというよりも、誰にも口外しないというよりも、そもそも何もなかっだ。そうでないと、自分の気持ちを柳原君に打ち明けれない。

 芙蓉は次第に明るさをなくしていった。

 葵がワンゲルの話をとうとうと語っていて、話題がその方に向いたのが救いだった。


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