第39話、月夜の下で②

 先に口を開いたのはソフィアの方だった。

 

『不思議ね。遠い海の向こうで、文化も環境も全然違う場所で育ったはずなのに、わたし達って本当によく似てる。考え方も趣味もそっくりだし好きなものも一緒』

『ほんとそうだよな。ソフィーとは出会ってからそんな月日も経ってないのに、もう何年も一緒にいるみたいな感覚だ』


『うん、そう思う。それくらいレンと一緒に居ると心が落ち着くの。レンの癒し効果は抜群ね』

『ソフィーの癒し効果だって凄いもんだ。こうしてソフィーと話してるだけで、さっきまであれだけ悩んでいたのが嘘みたいに落ち着いてくる』


 ソフィアとこうして話をしていると不思議と心の中が穏やかになる。彼女も俺と同じように頬を緩ませて優しい瞳で俺を見つめてくれた。


 その澄んだ碧い瞳からは彼女が俺と同じ気持ちになっている事が伝わってきて、こうしているだけで嬉しくて堪らない。


 ソフィアともっと話がしたい――そんな想いから自然と彼女の名前を呼ぼうとしたのだが、それよりも先に彼女の口から言葉が続けられる。


 それは先程までの穏やかな様子からは一転して何処か寂しげなものだった。


 ソフィアは手の中のマグカップに視線を落としながら、何かを諦めるような響きを持った声でぽつりと呟く。


『――レン、あのね。大切なお話があるの』

『大切な話……姫奈と早乙女が言っていた、副会長の話か』


『うん。今日はその事でずっと悩んでてレンにも心配かけちゃったかも』


『謝らないでくれ、ソフィー。急な話だったしな。それに以前と違って今の俺が副会長になったらソフィーにも影響が出てしまうわけだからな』


『そうね、わたしは今レンにアリスのお仕事の協力をしてもらってる。だからハッキリしないといけないって思ってずっと考えてたの。それで夜風に当たって頭の中をスッキリさせようと思ったんだけど、こうしてレンとお話してたら今その答えが分かった気がする』


 ソフィアはそこで言葉を区切ると、ゆっくりと俺の方に向き直り――それから真剣な眼差しを向けてきた。


『……レン、わたしは一人で大丈夫よ。レンはヒナさんと生徒会活動を頑張って欲しいの』


 彼女は一瞬俯いた後、再び顔を上げて無理矢理作ったような笑顔で言った。


『そもそも日本に一人で留学してきた時から分かってた事なの。わたしは一人で頑張らなきゃいけない、言葉も文化も違うこの国で誰にも頼れないって思ってた。勉強にしてもアリスとしてのVtuber活動にしても、それはわたしが自分で解決しなきゃいけない事だから。でもわたし、日本に来てからレンに頼りっぱなしで甘えてばっかり。あなたの事を必要としてくれる人は大勢いるのに、わたしだけがレンを独り占めしちゃうのは良くないわよね』


 彼女は俺を諭すように優しく微笑むと、ベランダの手すりに手を置いて夜空を見上げる。


 彼女は言う、自分にはもう十分すぎるくらい良くしてくれたと。これ以上迷惑をかける訳にはいかないと。


『動画の翻訳作業はわたし一人で何とかするわ。今は機械翻訳だって進んでるし、完璧じゃないかもしれないけど多分きっと何とかなると思うの。レンはわたしとの動画の事は忘れて、生徒会の副会長としてヒナさんを支えて学校のみんなを笑顔にしてあげて。レンならそれが出来る、すごい人だってわたし分かってるから』


 そう語るソフィアは笑顔でも、俺にはそれが作り物にしか見えなかった。月夜に照らされた彼女の表情は儚くて、まるで泣いているようにさえ見えた。


『わたし、レンがいなくても精一杯頑張るわ。だから大丈夫。わたしは一人でも大丈夫だから』


 ソフィアは大丈夫だと何度も言葉にして、きっと今自分にそう言い聞かせている。彼女は手すりに置いてあったマグカップを手に取りそれをぎゅっと握り締めて、その手が微かに震えているのを見て、俺の胸は強く痛んだ。


『あっ、そうだ。レン、眠れないのよね? 今まで動画の翻訳作業を頑張ってくれたお礼も兼ねて、約束してたスペシャルASMRをこれから聴かせてあげる。前に言ってたみたいにわたしの甘い囁きで夢の中に誘ってあげるわ』


 ソフィアはこちらに振り返ると明るい声でそう告げてくる。


 俺と約束していたスペシャルASMR、それは俺がアリスの秘密を守る事を条件にソフィアが取り付けたものだった。


 それは俺と彼女の関係が始まったきっかけになったもの。その繋がりは俺とソフィアの中で大きな意味を持っていた。


 今その約束を果たすという事は、彼女が自分から離れようとしている事を、もうこの関係を終わりにしようと言っている事に他ならない。


 もし俺が副会長になれば生徒会の激務に追われ、彼女と一緒に登下校する事も、二人で向かい合って食事をする事も、休日に一緒に出掛ける事も難しくなる。今までのような生活を送る事は出来なくなってしまう。


 それをソフィアも分かっているからこそ、今こうして俺との約束を精算して、この関係を終わらせようと言っているのだ。


 ここで頷けば全てが終わる。

 それを分かっているからこそ、俺は返事も出来ずソフィアの事を見つめ続けていた。


 俺の瞳に映る彼女は今も笑っている。けれどやっぱりその笑顔は作り物で、本当の想いを押し殺しているようにしか俺には見えなかった。


 今彼女が何を考えているかよく分かる。俺達は似た者同士、だからこそ――彼女が本当は何を願っているのかも俺にはハッキリと分かるのだ。


 そしてその願いだって同じだ、俺も今ソフィアと同じ事を考えている。全部俺には伝わっている。


 そんな顔をしないで欲しい。そんな寂しい嘘をつかないで欲しい。そんな悲しそうな声で無理矢理に笑う必要なんてない。


 だから伝えなくては。

 彼女に俺の気持ちの全てを包み隠す事なく、ありったけの想いを込めて。

 

『レン、それじゃあ部屋に戻ってスマホで通話を繋げましょう。イヤホンを付けてわたしの可愛い声に耳を傾けながら眠ってね?』

『――嫌だ』


 気付けば無意識に口から言葉が漏れていた。

 驚いた様子を見せるソフィアに俺は言葉を続ける。


『俺もソフィーと話をして頭の中がスッキリしたよ。どうしたら良いかっていう答えが見つかったんだ。だからソフィーの提案は受け入れられない』


 俺は真っ直ぐに彼女の碧い瞳を見つめ返す。彼女の弱々しく潤んだ瞳が揺れるのが分かった。


 俺はソフィアから目を逸らす事なくゆっくりと口を開く。彼女の想いに応えるために、俺の想いを伝える為に。お互いが望む本当の答えにたどり着く為に――。


『――俺は決めた、副会長にはならない。これからもアリスを推し続ける、ソフィアを支え続ける。それが俺の出した結論だよ』


 静かな星空の下に俺の決意の込められた言葉は良く響いた。その言葉を聞いたソフィアは目を丸くして、信じられないと言わんばかりに大きく見開く。


『どういう事……? 副会長にはならないって……ヒナさんの事は、どうするの?』

『副会長にならなくともあいつをサポートする事は出来るはずだ。俺がしたい事は副会長になって学校を良くするとか、生徒達の為に動くとかそういう事じゃないんだよ』


『でも……ヒナさんはレンの幼馴染で、大切な人なんでしょう……? そんな人をほったらかしにしてわたしの傍にいるなんてダメよ……』

『ほったらかしにするわけじゃないさ。あいつをフォローする方法はいくらでもある。俺が本当にやりたい事はやっぱりアリスちゃんを――ソフィーの事を全力で応援する事なんだ。俺が世界で一番大切に想っている女の子を誰よりも輝かせる事なんだよ』


 決意の込められた俺の言葉を聞いてソフィアの碧い瞳に涙が浮かぶ。小さな肩を震わせながら彼女は必死に言葉を紡ぐ。


『本当なの……? わたしがレンの一番で、他の誰よりもわたしが大切……? これからも応援してくれるの……? これからもレンの事、頼ってもいいの……?』


 ソフィアは震える手で自分の胸元を押さえると、まるで祈るように俺の目を見つめてきた。


 彼女の問いに対する俺の答えは最初から決まっている。俺が迷う必要なんて何処にもない。だって今までずっとそうだったから。画面越しに応援し続けてきたアリスを、今こうして目の前にいるソフィアの事を、これからもずっと誰よりも愛し続けて支えていく。それが俺の選んだ道だから。


『もちろんさ、ソフィー。これからも俺は全てをかけて、ソフィーの事を支えていきたい。俺にとってソフィーは特別な存在なんだ。俺の世界はいつだってソフィーの笑顔に支えられてる。アリスちゃんに出会ったあの日から、俺はソフィーの虜になったままだからな』


 俺は優しく微笑みながら想いを告げるとソフィアの顔がくしゃりと歪む。目尻に浮かんでいた雫が頬に流れ落ちて、涙をこぼしながら彼女は満面の笑みを浮かべた。俺の大好きな、心からの幸せそうな笑顔で。


 そしてソフィアは胸に手を当てたまま、その透き通るような声で俺への想いを口にした。 


『ありがとう、レン……。わたし、嬉しい……っ。あなたの一番がわたしで、わたしの一番があなたでいられる事が、すごく、すっごく、幸せ……』

『俺もだよ、ソフィー。俺も今すっごく幸せだ』


 俺の心の中にかかっていた分厚い雲が消え去っていく、頭上に浮かぶ星空のように澄み切った気分だった。迷いや不安が全てなくなり、ただソフィアの事を想い、彼女の事だけを考えている。


 ソフィアは涙を拭いながら嬉しさに満ちた表情を浮かべ、その碧く澄んだ瞳には俺の姿だけが映っていて、俺もそんな彼女の事を優しく見つめ返す。


 月明かりの下で見る彼女はいつもより美しく見えて、その姿は息を飲む程に幻想的で、そんな彼女とこれからも一緒に居たいと思う。


 推しの為なら俺は何でも出来る、この熱い想いを決意に変えて、ソフィアと二人で真っ直ぐ前を向いて歩いていこう。


 胸の奥に灯った温もりを感じながら、この先何があっても彼女を支え続けると俺は心に誓った。

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