落ちる

連喜

第1話

 エレベーターが苦手な人は意外と多いかもしれない。あの狭い空間は閉所恐怖症、自己臭恐怖、視線恐怖、その他様々な不安を引き起こす場所だ。あの狭さと不安定さは、別の場面ではなかなか味わえないものだ。


 マンションに住んでいる人やオフィスで働いている人にとって、エレベーターは階段なんかより身近で、怖いなんて考える暇はないだろう。


 この間、ちょっと気持ちの悪い話をYouTubeで見た。


 エレベーターには、重量制限があるが、なぜか知っているだろうか?恐らく多くの人は、エレベーターのカゴを吊り下げているワイヤーが切れてしまうと思うのではないだろうか。俺もそう思っていたが、実際はそうではない。重量をオーバーすると床が抜けてしまうそうだ。この話を聞いて、ますますエレベーターか不気味に思えてしまった。


 俺は二十代までは、エレベーターに乗る夢をよく見た。場所は古い団地などで、コンクリート打ちっぱなしの寒々しい内装だ。照明はついていないが、窓から明かりが差し込んでいる。無人で不気味だった。そこで、俺は扉のないエレベーターに一人で乗っているのだが、急速に下に降りている。箱から落ちてしまいそうで、俺は怖なってしゃがみ込む。もしかしたら、建築現場なのかもしれない。なぜかスケルトンのエレベーターで壁もない。しかし、そんなのは技術的には無理だろうから、俺の妄想でしかないのだ。


 夢の中で見た場所には、子供の頃に行ったことがあったのかもしれないと最近思う。俺は五十代になってから、エレベーターの夢を繰り返し見るようになった。


 俺は6歳の時までは団地の多い、いわゆる低所得者が多く住む地域に住んでいた。うちもその中の一つだった。2DKに家族四人で住んでいた。父は普通の中小零細企業のサラリーマンで、生活は貧乏だった。遊び仲間は近所の子たちで、みなうちと同等かそれ以下の家庭出身だったと推察する。


 その友達たちとやっていたのは、人に迷惑をかけることばかりだった。せっかく花壇で育てた花を摘んだり、壁に落書きをしたり、知らない家にピンポンダッシュをしたりもした。小さい子どもを遊びに誘って、遠くに置き去りにしたこともある。俺は所謂、質の悪いクソガキだったのだと思う。しかし、俺は小学校に上がる前だったから、年上の子たちについて行くだけだった。ただ、スリルを一緒に味わって面白がっていたのだ。


 夢の中のエレベーターが団地なのかというと決してそうではない。今思い返しても、その団地はエレベーターなんかなかった。昭和四十年代はエレベーターなしの四階、五階建ての団地が普通にあった。若い人ばかりが住んでいたから、老後エレベーターなしで住めなくなるなんてあまり思っていなかった。


 階段で上の階まで上がらなくてはならないのだが、俺は子どもだからすいすいと登っていた気がする。辛いと思った記憶はない。

 ある時、いつものように年上の子どもたちと遊んでいて、みんなである建物の上の階の方に上がって行った。薄暗い灰色の建物だった記憶がある。そこは上の階の階段から一階までがずっと見下ろせるような、吹き抜けの作りになっていた。上の階に上がるにつれて足がすくんだ。


 そこの建物の一番上の階には幽霊が出る部屋というのがあった。みんなでワクワクしながら行ってみると、何の変哲もない鉄の扉があるだけだった。みんなが俺をはやし立てて、ピンポンを押すようにと言った。俺は仲間外れにされたくないから、恐々押してみた。部屋の中で鈍くピンポーンと言う音が聞こえた。部屋の中で住人の人が立ち上がって、こちらに向かって歩いて来る様子を想像した。俺の足はガクガクと震えた。すると、みんなが一気に走り出した。ピンポンダッシュの時はいつもそうだが、その時は誰も俺を振り返らなかった。そいつらは俺を怖がらせるために、わざと俺を置き去りにしたんだ。みんな逃げながら笑っていた。


 俺は一番年下で、足が遅いからすぐに降参し、しゃがみこんでしまった。幽霊が追いかけて来たらどうしようと想像しただけで恐ろしく、逃げられなくなってしまったのだ。そして、泣きべそをかいていると、ギーっと扉を開ける音がした。そして、誰かがつかつかとこちらに近づいて来ると、その男は俺の体を乱暴に上に引き上げた。そして階段の方へ歩き出した。俺は気が付いた。


 殺される・・・。


 一瞬だった。そいつは、鬼みたいな大男で僕は高く高く放り上げた。


 その瞬間を今も覚えている。天井が目の前に近付いて来た。


 うわぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・

 わぁぁぁぁ・・・


 ああああああああ!


 俺は手を上にあげてもがいた。


 お母さん・・・


 俺の体はすぐに急速に落ちて行った。


 何が起きたかわからなかったが、俺はパニックになっていた。頭の中には優しい母と父の顔が浮かぶ。多分、幼いながらも走馬灯を見ていたんだろう。


 受け止めてくれるものは何もなくて、階段を下へ下へと落ちて行った。あちこち体をぶつけて、頭も腕も足も腰もすべての骨は手すりに当たって砕け、腕は折れ曲がった。顔をぶつけて血だらけになった。鼻もつぶれてしまった。運よく途中の階の手すりに引っかかって、俺の体は階段側に落ちた。俺は気を失ってしまった。


 あれからもう四十年以上経っている。

 

 それからずっと寝たきりだ。

 全身と頭を強く打ったが、体重が軽かったから助かった。

 しかし、顎が砕けてうまく話すこともできないし、ベッドに寝たままだ。楽しみはコンピューターとテレビだけになった。最近は視線を使って文章を打つこともできる。それで、ネットで知り合った人と交流する。小説を書くことだってできる。


 俺の体は夢の中でポンと上がったり下がったりする。

 それが最後の記憶だからだ。


 夢の中でも俺は身動きが取れないまま床に座り込んでいる。

 そのまま上に引き上げられたり、叩きつけられたりする。

 痛みを何度も感じる。


 あの団地はまだあるんだろうか。

 あの場にいた友達はもう大人になっているんだろうか。

 誰も見舞いに来てくれなかった。

 なぜ?

 関わりたくないんだ。

 責任を問われたくないんだろう。


 僕の記憶はあの団地で止まっている。

 まるで閉じ込められたかのように。


 あの日の朝、優しい母に家から送り出されて、なじみの友達に連れられて、笑いながら家を出発したのに。俺はもう二度と家には戻れなかった。

 俺はやつらを信頼していたのに。手ひどく裏切られた。


 長年、俺の面倒を見てくれた母さんは、数年前、病気で亡くなってしまった。

 

 俺の魂は今はもうないであろう団地の中をさまよっている。

 灰色のコンクリート打ちっぱなしの建物だ。

 肉体が行きながられている限り、魂はその場に残り続ける。


 犯人は見つからなかったらしい。俺がピンポンを押した部屋は空き部屋だった。そこには、本当に幽霊が住んでいたのかもしれない。俺たちの悪戯は悪質だったが、見せしめのために俺だけを罰したのか、特に俺が性悪だったかはわからない。俺が元気だったらきっと将来人殺しをするから、神様がそうならないように俺を止めてくれたのかもしれない。


 俺の魂は建て替えられた新しい建物のエレベーターの中でも、ずっと下に降り続けている。決して上に上がることはない。


 ある団地に幽霊が出るそうだ。

 子どもを屋上やベランダから落とすそうだ。

 その幽霊は俺なんじゃないかと思っている。

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